
*前書

『皇天順ならず』(以下、皇天)は、みなじり先生に習い「リアルタイムに進行していく」「説明文を入れない」ことにしています。
また、皇天は主人公を中心に進めていますので、その主人公の知り得ないことを書かないようにしています。例えば、この時代を代表する人物である北宋の徽宗皇帝は、耶律大石と関係なく登場しません。
前まで、ずっと、そのつもりでしたけれど。しかし、小説! もし大石と徽宗が出会う機会を持てれば……。その時に出演させたいと思います。
いま報告しましたように、この皇天は小説。つまり、うそだ!。
そこで、この義解において弁解したいと思います。しかし、これも、ほとんど私的なものなので、学術上必要な厳密さを持っていません。また、語句・地名などは、初出順でなく、気まぐれに選びました。ですからバラバラ。
使用した原典史料のほとんどは漢文です。そのため皇天は現代日本語や現代中国語からみれば難しい漢字・表現・描写を使用しています。ただし、漢字の旧字体をなるべく使わないようにしました。
文章・表現も漢文の訓読み(書き下し文)から、多くを採用しています。
また、原典史料自体に、あまり考証を加えていません。小説ですので。この義解にある原典史料・参考文献の詳細は〈遼・金・元簡易資料集〉をみていただきますようお願いいたします。
契丹語について推測されている単語、モンゴル語やトルコ語などで契丹語に近いと判断できる単語、また、女直語について満洲語で解読可能か近い単語があります。しかし、その解読について正しいかどうか判断できませんし、漢語由来の単語も多くあるので、契丹語や女直語などの発音は機械的な方法でカタカナにしました。それは中国語近古音(宋・元代)などを頼りに、連母音・二重母音などをなるべく解消し(アウ・アオ。ウィ・ウェやイェなど)、中国語での無気音を濁音にして、簡単な日本語表記にするというものです(例外あり)。また、中国語の発音を日本語表記にしたとき使われる長音を省きました。しかし、宋人(漢人)を漢字のまま表記しています。
官位ある者を呼ぶときの一例として、漢人であれば“姓+官名など”があります。契丹人の場合、タイシ=リンヤ(大石林牙)のように“名+官名など”という組み合わせが原典史料に見受けられます。それに契丹人は耶律氏と蕭氏しかいません。つまり耶律林牙がいっぱい。そこで皇天において契丹人を“名+官名”で呼ぶことにしました。
伝記・本紀・それに類する書のある者は提示しています。ただ皇天の進展に従いますので、この義解の情報は途中まで。
私は現代中国語・現代モンゴル語・現代トルコ語・現代アラビア語・現代ペルシア語・現代……を話せませんし、すらすらと読めません。辞書を引ける程度です。また、言語学そのものを正式に習っていません。ですから語学の知識は少々怪しい。さらに、残念ながら古代語や中世語を専門に扱った辞典・字典・事典などを、いまだに使用できていません(いや、手に入ったって使えるのか?)。そのため漢語(中国語)・モンゴル語・トルコ語・アラビア語・ペルシア語……は現代語を準用しています。つまり、「ペルシア語で……」と書いているばあいは“現代ペルシア語辞典”を引いた結果ということ。原典史料・参考文献などから判断できるものは概ね採用しました。ただ、参考文献などにでてくるトルコ語・ペルシア語などと違うときに現代トルコ語・現代ペルシア語……としています(アラビア語は変化ないようですね)。恐ろしいのは方言や訛。民族・部族による差、都市・農村・山岳・草原・砂漠での地域差、王侯貴族と一般庶民といった身分差などあります。これらについて、ほとんどわかりません。
多くの参考文献は慣用的な単語・発音を採用しています。そのこと自体に疑問を持っていません。けれど、当時、そこで、彼らは、どんな単語を使っていたのか、言語による発音の違いはどうだったか……などに興味をそそられますね。たぶん、この義解に誤用があると思います。すみません。気付いたら、できるかぎり、すみやかに訂正するようにします。
年月日は初め太陰暦(旧暦)を記し括弧内にキリスト教グレゴリウス暦(太陽暦・新暦・西暦)を補いました。
タイトルにつかった“弗順”は普通“じゅんならず”より“したがわず”かな。
この義解は第11版です。しかし、ほとんど訂正のためばっかり。さらに1年間ほったらかしでした。

*人名

タイシ=リンヤ(大石林牙)……耶律大石。
耶律大石の本紀は『遼史』巻三十/天祚皇帝四/耶律大石(以下『遼史』30耶律大石というように表記します)ほか『契丹国志』19(『松漠紀聞』1と大同小異で『遼史』と異なる内容)。
字は重徳。太祖(耶律阿保機)8代の子孫。これは阿保機から数えるならば9代目ということでしょうか?
耶律氏の漢姓は劉です(『金史』巻末/金国語解)。しかし『遼史』の中で契丹人が劉某と名乗った記事は、今のところ見つかりません。どのように使ったのでしょうか? いつか、よく調べたいと思います(原典史料ないって!)。また、重徳は字です。そのため皇天で劉重徳としているのは、おかしいことになりますね。遼朝の契丹人は姓(これは耶律と蕭のみ)・名(契丹名と漢名)・字(契丹語と漢語?)を持っていました。それなら大石は契丹名・漢名どちらかな。 重徳も契丹語・漢語かということになります。そこで私は大石を契丹名として、重徳を漢名・漢語の字としました。もちろん、ほかの組み合わせも可能です。ただ劉大石より劉重徳がいいなあ、と思っただけです。
大石をタイシとしたのは村上正二訳注『モンゴル秘史』第1冊/63頁/注15からです(中国語の太師)。モンゴル語の辞書を見ると、タイシは古語として“封建制度称号の一つ”とあります。ただ、トルコ語で石のことをタシと言うそうで。中国語音に似ているし、大石だし。もしかしたらタイシでなくタシか? モンゴル語の石はチョロー。しかし、鉄鉱石・小石はグルとあります。これは、耶律大石の即位して後の称号グル=カンのグル(モンゴル語で“あまねき”“すべての”)と異なる綴り(uーウムラウト――の上に点が2つ――の一字だけ)ですけれど、何か関係があるのでしょうか? ちなみに梵語のグル(重い・大きい・師・木星など)のモンゴル語においての綴りは小石のグルと同じです。ついでにトルコ語のギュルというのが“たっぷりとした”“ゆたかな”という意味。
『遼史』64皇子表によると太祖は四子を為しました。第一が義宗(耶律図欲)、第二が太宗(耶律堯骨)、第三が章粛皇帝(耶律李胡)、第四が耶律牙里果です。もし、太祖にこの四子しかいなかったのであれば、廟号か帝号を持っていないのは牙里果のみであるので(ほかであれば、義宗七代の子孫とか太宗七代の……、章粛皇帝の……となるはず)、耶律大石の先祖は第四子の耶律牙里果でしょうか? また、牙里果の子は三人。敵烈・室魯・奚底(『遼史』66)です。そのあとはわかりません。
耶律大石は遼字(契丹文字)・漢字に通じ、騎射を善くしたそうです。1087年か1095年の生まれ。これは、のちのことになりますけれど、皇帝に即位したとき38歳(数え年)だったということから計算しています。あとは、その即位年を1124年(ほんらい自立した年)にするか、1132年(ほんとうの即位年)にするか。皇天は1095年の生まれにしています。わかいほうが、なんとなく劇的なので。
天慶五年(1115年)、進士第に登り(登第で合格)、翰林応奉に擢【ぬ】かれ(ひきぬかれ、第擢という表現もある)、ついで承旨に陞【のぼ】ります。遼は翰林を契丹語で林牙としたので、かれは大石林牙とよばれました。ここの翰林応奉は『遼史』47百官志3翰林院にありません。私は『契丹国志』23試士科制にある「又将第一人、特贈一官、授奉直大夫・翰林応奉文字」とあることから、翰林応奉を第一人(首席合格?)なる者に贈られる称号と思いこみ、大石を首席合格者にしてしまいました。じつを言うとわかっていません。応じて文字を奉じる、と読むのかな?
大石は泰州(黒龍江肇源か吉林前郭爾羅斯旗)・祥州(吉林長春東北)の刺史(節度使?)、平州(河北盧龍)の遼興軍節度使を歴任します。
大石が進士に登った天慶五年は阿骨打の即位年。前年の十二月に祥州は女直に蕭幹とともに入っています。蕭幹は未だ幾ばくもなく遼に帰りました。そのとき祥州も復帰したものとおもわれます。そして五年九月丁卯朔(一日。1115年9月27日)に黄龍府(吉林農安)が女直に陥れられているので、祥州も同時に落ちたのでしょう。泰州は女直の都である会寧府(黒龍江阿城)の近くにあり、七年正月(1117年2月〜3月)に女直によって取られています。つまり大石は泰州について一年数カ月。祥州について数カ月か、ひと月未満しか治められなかった(進士になったのが九月より前だったとして)か官職名だけだったことになります。なお泰州と祥州は節度使の治める州です。刺史が任じられたのかどうか解りません。
皇天で大石の称号に加わっている正奉大夫は適当に付けました。『遼史』47百官志3翰林院に品位は載っていません。『金史』55百官1翰林学士院に「翰林学士承旨、正三品、掌制撰詞命。凡応奉文字、銜内帯知制誥」(ここに応奉文字がありますね)とあり、同57百官3諸節鎮に「節度使一員、従三品」。もどって同55吏部に「正三品、上曰資徳大夫、中曰資政大夫、下曰資善大夫。従三品、上曰正奉大夫、中曰通奉大夫、下曰中奉大夫」とあるところから節度使に合わせて選択しました。のちのことに、この大夫という称号を使うため、強いて大石に付けてあります。
大石が女直軍に捕らえられたのは『遼史』29に四月丙申(十三日。1123年5月17日)とあり、『金史』2で壬辰(九日。5月13日)。
大石は阿骨打から妻を賜ります。このことは『北使記』から採りました。この妻の氏名はわかりません。もちろん性格も不明。『松漠紀聞』1に「則棄其妻、携五子、宵遁」とあります。たぶん、この棄てた妻は阿骨打から賜った女性なのでしょう、と、私は考えました。ネモホが雙陸で大石と争ったことと、大石の妻を射殺したことは『松漠紀聞』1から。五子について原典史料に詳しいところはありません。皇天で子を二人にしているのは、私の記憶違いと、ほかの原典史料との兼ね合いです。
大石がジュルチェンから出たのは保大三年九月(1123年9月〜10月)。ジュルチェンでの滞在期間は五カ月ほどでした。『松漠紀聞』1に「達実(大石)、深入沙子、立天祚之子梁王為帝、而相之」とあります。この記事は『遼史』にありません。しかし、梁王の薨去は保大三年十月(1023年10月〜11月)ですので、大石と梁王との会見の可能性は、ぎりぎりですけど、あります。
大石が天祚のもとから完全に離れたの時期は、保大四年二月(1124年2月〜3月)から七月(8月〜9月)までのことです。『遼史』29天祚皇帝3保大四年の五月から七月までの記事は、前年の事件を誤って載せているため、確実でありません(八月も「是月、金主阿骨打死」とあってまちがっているぞ)。
陳舜臣氏(耶律大石の登場する唯一の小説『桃源郷』)によるとアシールの『完史』に大石は“マニ教徒”だと書いてあるそうです。ただタルデュー/大貫隆・中野千恵美訳注『マニ教』の〈マニ以後のマニ教の年譜 E〉にアシールがこの国を“「マニ教徒」(=異教徒と偶像崇拝者)”と呼んだ、とありました。また、『資治通鑑』237唐紀53憲宗元和元年(806年)に「是歳、回鶻入貢、始以摩尼偕来、於中国置寺処之」とあり、小さく「回鶻之摩尼、猶中国之僧也……」とあります。もしかしたら、イスラム教徒は、マニ教徒と仏教徒とを、同じに見ていたか、区別していなかったのでしょうか?
ほかに「耶律大石は中国の絹の衣服しか着ない」「西遼のある公主は嫁に出る時に、頑なに漢族の女子の習慣に従って化粧した」らしい(『世界の教科書シリーズ5 入門 中国の歴史』。原典史料不明)
タブエン……蕭塔不煙。皇天に登場したとき、まだ笄年【けいねん】(成年)に達していなかったという設定でしたので、男児の服を着ていたりしています。歳を離し過ぎたかな。彼女の家族・性格についての原典史料は、いまのところ、まったくありません。
男の名で撻不也というのもあります。同じ発音かどうか判りません。『金史』金国語解に「答不也、耘田者」とあります。モンゴル語で穀物をタリアン。農家をタリアチンというそうです。
オリラ……蕭斡里剌。『三朝北盟会編』7にある牛欄監軍蕭遏魯(たぶん一度しか出てこない?)と同一人物にしました。原典史料で斡里剌国舅と表記されることはありません。しかし、旧版の義解で「名前に国舅を付けて呼ぶこともありません」としていましたけれど、ありました(『遼史』19興宗2重煕十年九月辛亥「国舅留寧薨」)。耶律大石の副官にしています。
ジャラーブ……蕭査剌阿不。この当時、槊【さく】(ほこ)を使ったのでしょうか?
スンシャン……耶律松山。
ジュセ……耶律朮薛。
エンシャン……耶律燕山。
テゴ……耶律鉄哥。
ビリラ……闢里剌(氏不明)。
サバ……撒八(氏不明)。
ディリ……迪里(氏不明)。大石の養子にしてしまいました。
トゥデ……突迭(氏不明)。上に同じ。もちろん、養子などと『遼史』に書かれていません。
李球……はるかのちの西遼に、郡王の李世昌という人がいました(『湛然居士集』2贈李郡王筆・8酔義歌)。耶律楚材が遇っています。たぶん漢人はいたのでしょう。李球は、その李世昌の先祖と仮定して登場させました。じっさいはわかりません。
以上、大石の麾下の将兵ら(に私がしてしまった者)。彼らは原典史料に載っています。ただし、その実体はまったく不明。ほとんど名前しか出てきません。皇天中の官職名はてきとうです。
フティン=リンヤ……耶律仏頂。西北面招討使。やはり原典史料上において正体不明です。宗室か?
天祚皇帝……遼主・アガなど。耶律阿果。劉延禧。字は延寧。遼の第九代皇帝。1075〜。道宗(第八代皇帝)の孫。父は耶律耶魯斡(劉濬。順宗。1058〜1077)。耶魯斡は道宗の皇太子でした。しかし阿果が三歳の時、耶魯斡は廃され殺されています。天祚皇帝の皇后は一人、妃は三人いました。皇子は六人で、皇女も六人。本紀は『遼史』27〜30・『契丹国志』10〜12・『三朝北盟会編』21。
晋王……耶律敖魯斡。天祚の第一皇子。1089〜1122。母は文妃=蕭瑟瑟(余都姑の妻の妹)。伝記は『遼史』72宗室/晋王敖魯斡。
梁王……耶律雅里。字は撒鸞。天祚の第二皇子。1093〜1123。数えで30歳です。母は元妃=蕭貴哥(得里底の妹あるいは姪)。『遼史』30耶律雅里。
燕王……耶律撻魯。天祚の第三皇子。母は徳妃=蕭師姑。1097〜1104。
趙王……耶律習泥烈。天祚の第四皇子。母は趙昭容(本氏名は不明)。
秦王……耶律定。定は漢名か? それならば劉定ですね。天祚の第五皇子。母は元妃。
許王……耶律寧。劉寧? 天祚の第六皇子。母は元妃。以上『遼史』64皇子表。
蜀国公主ユリエン……耶律余里衍。天祚の娘。母は文妃。ほか皇女は骨欲・斡里衍・大奥野・次奥野、あと一人名称不明。ユリエンを除く五人のうち、三人の母は元妃で、二人が宮人(氏名不明)。もともと原典史料に彼女が踊る記事などありません。しかし、アクタが彼女をオリブに賜ったことは『金史』74宗望にあります。
梁宋国大長公主は道宗皇帝の三女で、天祚皇帝の叔母にあたります。名は特里。『遼史』65公主表。『遼史』29天祚皇帝3保大三年四月「庚子(十七日)、梁宋国大長公主特里、亡帰」とあるので、いちど金軍に捕まり、あとで逃げてきた、ということにしました。しかし、このあと、どうしましょう。
趙王妃オリエンは蕭斡里衍。同じような名前が多く、混乱してしまいます。じっさい名前の取り違えをしてしまいました。
彼女らの性格については、原典史料から得ること無し(つまり創作)。
デリディ……蕭得里底。蕭奉先(『遼史』中、蕭得里底と蕭奉先の二つの伝があります。中華書局『遼史』の校勘記(1432頁)は同一人物としています。それに倣いました)。国舅族(皇后を出す家柄)。天祚皇帝元妃の兄か伯父。北院枢密使・蘭陵郡王。『遼史』100蕭得里底・同102蕭奉先・『契丹国志』19。
マゴ……耶律馬哥。小説中においてシリウ(耶律石柳。『遼史』99)の子(同中書門下平章事)としました。しかし『遼史人名索引』(曾貽芬・崔文印編/中華書局/1982)は別人としています。この二人の馬哥は、ほぼ同時代に生きていたので(シリウの子のほうが少し早いか?)、一人としてみました。しかし同姓同名が多いので、全員ばらばらということもありますね。北面林牙・東面行軍副統・知北院大王事・都統・知北院枢密使事兼都統を歴任。保大四年正月(1124年1月〜2月)馬哥は金に執らえられます。
このほか天祚皇帝の臣下のソンシェウヌは蕭僧孝奴(北院枢密副使・知北院枢密使事)。この辺になると発音なんか適当。彼についての伝記も原典史料上の事績もありません。
テムゲ(特母哥)は氏不明。硬寨太保。保大四年(1124年1月〜2月)金に降ります。ほかディレ(耶律敵列か蕭特烈。『遼史』114逆臣下)・ウチ(耶律兀直)と共に梁王を擁立します。ディレ(ディリ。敵烈・敵列・特烈・迪里そして敵烈徳など)は、よくある名称。これらの発音は遊牧民のテレイ〔ト〕部(族)のと同じと考えられます。
秦晋王……耶律涅里。劉淳。興宗(第七代皇帝)の孫。1063〜1122。道宗は一時、彼を後嗣としょうとしました。文学を篤く好んだそうです。即位して天錫皇帝、崩じて宣宗。俗に燕王・九大王・覃湘大王と呼ばれました。『遼史』30耶律淳。
徳妃……蕭普賢女(もしかしたら普賢の娘と読むのか?)。耶律涅里の妻。天錫皇帝の崩御後、皇太后。?〜1123。
奚王クリブ……回里不・回離保など。蕭幹(翰)。字は妥懶(妥を手偏にする)。?〜1123。奚六部大王兼総知東路兵馬事・契丹行宮都部署を歴任。天錫皇帝即位で北院枢密使、徳妃の称制のとき越王に封じられます。四軍大王とも呼ばれました。実のところ1122年当時、彼は奚王でありません。しかし俗称として呼ばれていたことにしました。彼の存在は原典史料上で混乱しています。回里不と蕭幹が別人にされているかも知れません。ここでは同一人物としました。妻は阿古(耶律氏か?)。保大三年正月丁巳(三日。1123年2月7日)箭カン[竹・可]山において自立。大奚と号し、神聖皇帝と称え、天復元年(『遼史』29と『金史』65に天復、『契丹国志』12に天興とあり、『東都事略』124や『大金国志』3に天嗣)と改めます。彼の死は『遼史』29・『金史』2に五月〔辛酉〕、『宋史』22に八月(是月)となっています。彼は郭薬師に敗れ、その〔部〕下の殺す所となって、首は宋の京師(開封)に伝えられ、宋の徽宗の宣和六年正月癸亥(十四日。1124年2月8日)太社というところに蔵【おさ】められました。『遼史』114奚回離保・『金史』65奚王回リ[離のつくり]保。
奚【けい】(あるいは庫莫奚【こもけい】)族は契丹族と同種異族。これもカタカナ表記にしようとしましたけれど、奚族をヒ族(現代音でシ族。契丹の契と同じく“けい”でない発音を採用)、また庫莫奚をクムヒ(ほかの発音の組み合わせあり)などというのも何か変なのでやめました(ヒ王クリブ。クムヒ王クリブ。べつに、わるくないか?)。六部に分かれています。耶律阿保機以来、契丹国に組み入れられ、蕭氏を称しました。しかし、その初期にドンバリス=クスン(東ハイ[てへん・八]里厮胡損。あるいは胡損・胡遜)のように抵抗するものもいたようです(『遼史』2太祖下/天賛二年三月戊寅・同33営衛志5奚王府)。
張琳……張宰相・張太師など。瀋州(遼寧瀋陽)の人。南府〔左〕宰相?から守太師。『遼史』102。
李処温……李門下・李太尉など。李純?。析津(北京西南)の人。門下侍中?から守太尉。?〜1122。子の姓名は李セキ[大のりょうがわに百]です。少府少監・提挙翰林医官となりました。なお族弟(従弟?)に李処能が居り、直枢密院(枢密直学士?)から、天錫皇帝崩御後に僧となります。『遼史』102。
この処能の父は李儼【り=げん】。字を若思といい、その父の李仲禧(韓国公。諡を欽恵)は国姓耶律氏を賜りました。そのため儼も耶律儼で『遼史』に載っています。儼は越国公(趙国公)から秦国公そして漆水郡王に封じられ、諡を忠懿といい、『皇朝実録』七十巻を修めました(散逸)。『遼史』98耶律儼・『契丹国志』19李儼(こちらのほうは嬖臣【へいしん】として、あまりよくない評価で書かれています)。
左企丘……左平章・左司徒など。字は君財。中書侍郎平章事・監修国史から守司徒。徳妃摂政の時、侍中を加えられます。1051〜1123。『金史』75。
虞仲文……虞枢密・虞参政など。字は質夫。武州(山西左雲南)寧遠の人。枢密直学士兼翰林学士から参政(参知政事)領西京留守同中書門下平章事内外諸軍都統。1069〜1123。『金史』75。
ユドゥク……耶律余都姑(余睹・余覩ほか)。遼の宗室。東路都統。『遼史』102・『契丹国志』19・『金史』133叛臣。
シェンス……耶律慎思(『金史』132逆臣/完顔元宜)。デュエ……耶律迪越。ボデ……耶律孛迭(耶律懐義。『金史』81)。トゥシャン……耶律塗山(『金史』82)。ノウリ……耶律耨里(耶律恕。『金史』82)。ラウ……〔耶律〕落兀(『金史』91移剌成)。ガウバ……耶律高八。イシン……蕭乙信。ネイラ……耶律内剌(『遺山先生文集』26龍虎衛上将軍耶律公墓誌銘)。ティイ……蕭タ益(『金史』91石抹栄)。クレル……〔蕭〕庫烈児(『元史』150石抹也先)。サバル……耶律撒八児(『元史』150耶律阿海)。以上、彼らは大石より早く金に降伏か捕われたかしたか、その子孫に伝記のある契丹人です。
ワンギヤ=アクタ……完顔阿骨打。王旻。金の初代皇帝。太祖。武元皇帝。都勃極烈。ふつうワンヤン=アクダ(あるいはアグダ。満洲語・モンゴル語のアクタはセン[馬・扇]馬。これは去勢された馬のこと。軍馬などに使われたらしい))。1063〜1123(1115即位)。父は劾里鉢(ここでは発音を回里不と同じとしました。世祖。1039〜1092)。『三朝北盟会編』3に「以王為姓、以旻為名」とあります。『金史』2・『大金国志』1〜2。
ワンギヤ=ウキマイ……完顔呉乞買。王晟。阿骨打の母弟。金の第2代皇帝で、廟号は太宗。アンバン=ボギレ(諳版勃極烈)は「官の尊く、かつ貴きもの」と『金史』金国語解にあります。実情は後継者。1075〜(1123即位)。『金史』3・『大金国志』3〜8。
ほかの阿骨打の兄弟は十一人。烏雅束(ウヤス。康宗。阿骨打の同母兄?。1061〜1113)・斜也(シエ。杲。同母弟)・烏古乃(ウグナイ。異母弟?)・闍母(シェム。異母弟)など。このなかでウグナイのことは名前のほか原典史料に出てきません(『金史』59宗室表のみ)。ただ、『大金国滅亡』の主人公の先祖としたので登場させました。
ワンギヤ=オル……完顔斡魯。漢名不明(あるとしたら日偏)。阿骨打の従兄。デ=ボギレ(迭勃極烈)は『金史』に「倅貳【さいじ】の官」=副官?とあります。『金史』71斡魯。
ワンギヤ=オリブ……完顔斡魯補(オルブでよかったかな? ほか斡離不など)。王宗望。阿骨打の第四子。嫡出として二番目であるため、宋人から二太子と呼ばれました。皇天において女直人も二太子の呼称を使った、ということにしています。『金史』74宗望・『大金国志』27開国功臣伝/斡離不。
阿骨打の子は十六人。主な者を挙げます。斡本(オベン。宗幹。庶長子)・縄果(シェンガ。宗峻。第二子)・訛里朶(オルド。宗輔のち宗堯。第五子。三太子)・兀朮(ウジュ。宗弼。第六子。四太子)・訛魯観(オルゴン。宗雋。オリブの母弟)。『大金国志』2において(阿骨打は子を八人もっている、とある)、斡本を大太子としています。しかし、嫡流ということから縄果のほうがふさわしいような。
ワンギヤ=ネモホ……完顔粘没喝(粘罕)。王宗翰。斡魯の甥。イライ=ボギレ(移賚勃極烈)は位第三という。1080〜。ネモホなどとカタカナを振りましたけど、満洲語で魚をニマハ、心臓をニヤマン、漢人をニカンというそうです。また『金史』金国語解に「粘罕心也」とあります。だからニヤマンか? 『金史』74宗翰・『大金国志』27開国功臣伝/粘罕。
ワンギヤ=グシェン……完顔谷神(ほかに兀室など。これだとウシになる?)。王希尹。彼の系統は不明。『大金国志』に「為人深密多智。目晴黄、而夜有光、顧視如虎」とあります。しばらく『大金国志』を読んでいなかったので忘れていました。そのため突然、連続で登場します。『金史』73完顔希尹・『大金国志』27開国功臣伝/兀室。
郭薬師……渤海鉄州(遼寧蓋東北)の人。常勝軍都管押諸営上将軍(都統)。『金史』82・『宋史』472姦臣2。
張覚……平州義豊(河北ラン[さんずい・欒])の人。礼部郎中。のち平州遼興軍節度副使。?〜1123。『金史』133叛臣・『宋史』472姦臣2。
童貫……北宋の宦官。開封の人。字は道輔か道通。宋の徽宗皇帝の寵臣。『宋史』468宦者3。
宋主……北宋の第八代皇帝趙佶。徽宗。道君皇帝。1082〜(1100即位)。『宋史』19〜22徽宗1〜4。先行しているものが幾つかあるため、『宋史』は原典史料として最重要でありません。しかし、いちばん使いやすいので、ここに掲示しました。徽宗皇帝の参考文献は多数あります。
モゴシ……謨葛失。陰山室韋の酋長? 発音についていえば、たとえば、阻卜の磨古斯を「ケレイト部のマルクズ」(島田正郎『契丹国』23頁)というのがありますので、同じマルクズでしょうか? 同じ発音である可能性はあります。しかし、磨古斯と書かれた方は寿隆(寿昌)六年正月二十四日(1100年3月13日)、執らえられ、二月十二日(3月31日)、市で磔にされました(『遼史』26)。だから別人ですね。
白きタタールことオング部の詳穏チュワングル……白達達詳穏牀兀児。白達達がオングートである……というのは参考文献などに載っていましたので採りました。ただ“ート”は、たぶん複数形であろうと思われるので、オング部としています。居住地が陰山室韋に近いので、「相識る」ということでごまかしました。詳隠は「諸官府監治長官」(『遼史』116)です。
ハサン=ティギーン……平凡社『イスラム事典』に載るカラハン朝の系図から選びました。大石と同時代の人でしょうけれど、対面したかどうかわかりません。商人としたのも皇天のみでの設定です。また、ほんとうの氏名もわかりません。ティギーン(アラビア語・ペルシア語)はテギン(トルコ語?)・特勒(特勤?)などあり、王子などの意味を持つとか。契丹においてタ隠と書き「族属を典【つかさど】る官。すなわち宗正の職」でした(『遼史』116)。
ムハンマド……カラ=キタイこと西遼の歴史に出てくる西域人(ペルシア人やトルコ人)の先祖ということにしています。たとえばカラ=キタイの“将軍の一人”の“マフムード=ベイ”(佐口透訳注ドーソン『モンゴル帝国史』第1篇第5章146頁)や、のちモンゴルに従うことになる曷思麦里(イスマーイール。『元史』120)など。
ムハンマドの正しい発音はムハッマドゥ〔ン〕です(ふつう語尾を省略するらしい)。しかし、じっさいの発音を聴くと、ムハンマドでだいじょうぶだと思いました。
スルターン=サンジャル……セルチュク朝第8代スルターン。ムイッズ=ディーン=アブー=ル=ハリース=サンジャル。イスラム名アハマド。1084年生まれ。名宰相ニザーム=ムルク(1018〜1092)の後見によって帝国最大の版図を実現したマリク=シャー(1055〜1092。1072即位)の子。1097年異母兄ベルクヤルク(バルキヤールク)によってクラーサーン(ホラーサーン。イラン西部)に入ります(首府はメルブで、現テュルクメニスタンのマルゥ、一般の地図にマリ)。1117年、同母兄ムハンマド歿後、その子マハムード〔2世〕を1119年に従えて“大スルターン”に。1101〜1102年にカラハン朝を退け、1117年にガズナ朝を征し、1121年にグール朝を抑え、1130年にサマルカンドを獲り、1138年にコラズム=シャーを圧し、“世界の主人”と称えられました。

*地名・語句など

キタン……契丹。ふつうキタイですね。しかし、キタンとしました(中央公論社『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』338〜340頁。ただし、もとの発音を“キタニュ”“キタヌィ”としています)。私なりの発想として、日本語で言えば、単位とか任意など、次に“い”のある“ん”を発音するとき、舌は“い”と同じ所にあります。キタンの“ン”は、その“ん”なのでしょうか? 音声学によると、日本語で“ん”の次に語末か母音があると“ん”は口蓋垂鼻音となるそうです。それだけだと“い“か“ん”に聴こえます(日本語における、ほかの“ん”は、単体と発音する時のの歯茎鼻音“n”、単語の軟口蓋鼻音“ng”、単品の両唇鼻音“m”、単葉の硬口蓋鼻音など)。
また、単数をキタイ、複数をキタンという説もあります。
ジュルチェンは女直・女真・朱理真など。満洲語でジュシェンです。
耶律氏・蕭氏……前に『老人と少年』で耶律をイラ(移剌。金・元代に使用)と表記していました(耶律は現代中国語音イェリュ。以下記さない場合、現代音・近古音にあまり違いはない発音と思ってください)。しかし今回、エリとしています(日本語音のヤリツで構わなかったかなあ)。ふつう耶律はヤラート・イラートなどとされていました(愛宕松男氏論文。最後の“ト”は複数形語尾という)。内蒙古自治区の東南(河北・遼寧に近い)を流れる老哈(中国語音ラオハ)河を、当時、セ里没里あるいは陶猥里没里(現代中国語音タオウェイリモリ。この意味はわかりません)と呼び、漢語で土河としたといいます(『契丹国志』巻首/契丹国初興本末)。没里(中国語音モリ)は河。モンゴル語のモロンと同じでしょう。“セ”は日本語のカタカナでなく漢字で、日本語音で“ば”、現代中国語音で“ミェ”と読みます。『遼史』国語解において「太祖の始めて興った地は世里という」とあります。『遼史』1太祖上に太祖は「耶律弥里人」とありました(弥里は郷の小さなもの)。ふつう世里は現在の西拉木倫(シャルモロン。モンゴル語で“黄色い河”という意味)に当てはめられてきました。西拉木倫は内蒙古自治区東にあり、老哈河と合流します。しかし、ここで“セ”や“世”が、“也”の間違いだったら、と考えました。つまりセ里没里は也里没里。“也”“耶”の現代中国語音は“イェ”であるそうです。このようなことから私は耶律を也里と同じとしました。私は“イェ”を“エ”にしています。別に“イェ”と読んでいいのですけど……。付け加えると西夏人に野利(これも“イェリ”)というものがいます(西夏文字を作った野利仁栄など)。参考までにトルコ語で土地をイェル(yer)というそうです。これだと也里没里を土河と漢訳できますね。
次は剌(中国語音ラ)・律(近古音リウ。漢和辞典などで現代音をリュイとしてあることもあります)・里をどうすべきか。これは後の課題に(羅・里・勒・烈・魯などラ行の何に当たるのか? またRなのかLなのか?)。
また、『遼史』46百官2北面軍官に「曳[てへん。以下同じ]剌軍詳隠司。走卒謂之曳剌」とあります。この耶律と曳剌との関係は如何に。ほかに、『事林広記』庚集下(ほかに庚集10)至元訳語の鞍馬門に「曳(移)剌馬、阿只児海」とあります。阿只児海は現代モンゴル語でいえばアジラガで三歳以上の種馬のこと(佐藤晴彦ら訳注『老乞大』第61話/注/200〜205頁)。これも問題です。
西拉木倫は『新五代史』72や『契丹国志』にあるジョウ[梟の下を衣にする]羅箇没里(近古ニェウラコモリ。現代ニアオルオコモリ。古く饒楽【じょうらく】)か女古没里(近古ニウクモリ。現代ニュクモリ。女は現代音でニュイとしてあったりする)のことと考えられます。漢語でコウ[さんずい・黄]河です。“黄”の字が入っているので、まさに西拉木倫(先に述べたようにモンゴル語でシャルモロン“黄色い河”)。これを私は“ネウラコ”“ネウラク”“シウラク”など読んでいました(上記の“エ”と同じく“ニェ”を“ネ”としました)。遼の皇后族(国舅族)は蕭氏です。蕭は、契丹語の漢字表記で審密(中国語音シェンミ)か石抹(中国語音シモ。金・元代)。あるいは述律(人名など)・松漠(唐代の地名)を含みます。愛宕氏論文でシャルムート。しかし、これらと女古と合いません。どちらかと言うと西拉木倫に似ています。契丹語において女古は金を意味しました。つまり女古没里は金河。日本において黄金という表現があります。同じように金色=黄色としたのでしょうか? また審密の密が没里ならば、なぜ耶律に入っていないのでしょうか? トルコ語で黄色は“サル”。黄色っぽいが“サルムス”というそうです。同様に審密・石抹は黄色でなく、黄色に近いといった意味で付けられたのかもしれません。『老人と少年』で“シュムル”としたのは、清朝時代の解釈です。
燕京……正しくは南京です。しかし、だいたい燕京と呼ばれたので、そちらを採りました。現在の北京紫禁城から西南のほうに在ったらしいのです。周囲19.90656km。つまり一辺4.97664km。八つの門がありました。大内――皇城・子城などの表現もあります。これらが同じなのか違うのかは解りません。あるいは皇城・子城の中に大内があるのでしょうか?――は西南隅にあります。宮殿として元和殿・洪政殿・御容殿・嘉寧殿などあり、ほかに永平館・于越王廨・毬場・涼殿・燕角楼・瑶池殿などありました。
遼は五京を建てました。上京臨コウ[さんずい・黄]府(内蒙古巴林左旗)・東京遼陽府(遼寧遼陽)・中京大定府(内蒙古寧城)・南京析津府(北京)・西京大同府(山西大同)です。この中で燕京は帝国最大の都市です。『遼史』40地理志4南京道・『契丹国志』22州県載記/南京。
ナボ……漢音訳は捺鉢。漢語訳は行営。契丹族は遊牧民族なので宮城も移動します(春夏秋冬に合わせて四箇所)。宮殿は巨大な穹廬(テント。天幕・帳など。モンゴルのゲルなど)で、それが集まって斡里朶(発音をオルドとしています)となり、さらに合わさって捺鉢になると思ってください。内庫・三局・珍宝は不明です。たぶん捺鉢にあったのでしょう。『遼史』32営衛志中/行営。
最近の研究成果として、捺鉢の音は“nooboo”(ノーボー?)だったそうです(西田龍雄『アジア古代文字の解説』280頁)。
唐霊武の故事……安史の乱(755〜763)において、皇帝(玄宗)は蒙塵。しかし、皇太子(粛宗)は霊武(寧夏回族自治区永寧南)に踏みとどまります。そのあと皇太子が即位して、皇帝は太上皇帝になりました(『旧唐書』10粛宗/至徳元年七月甲子など)。
リンヤ……林牙。翰林学士です。遼の官制は複雑かつ膨大なので、説明は困難。北面と南面に分かれています。北面は朝官と御帳官・皇族帳官・宮官などの別あり。北面の朝官は、北枢密院(契丹枢密院)・北南宰相府・宣徽北南院・夷離畢院(刑獄)・大林牙院(文翰)・敵烈麻都司(礼儀)など。皇族帳官に大タ隠司(皇族の政教)ほかあります。南面は、南枢密院(漢人枢密院)・中書省・門下省・尚書省と六部・御史台・翰林院などありました。行宮諸部署司は北面宮官で斡里朶を総べます。警巡院は五京に置かれました。獄訟を平理することを掌る、といいます。『遼史』45〜48百官志1〜4・『金史』57百官3諸京警巡院。
ピシ軍……皮室軍。軍制で、北・南・左・右皮室および黄皮室が有ります。遼第二代太宗皇帝が天下の精甲三十万を選んで皮室軍と為しました。淳欽皇后の置いた属珊軍二十万と合わせて御帳親軍を成します。これが後世まで続いたかどうかわかりません。
遼の軍は『遼史』34〜36兵衛志や百官志に詳しく載っています。しかし、複雑でよくわかりません。御帳親軍・宮衛騎軍・大首領部族軍・衆部族軍・郷兵(漢人・渤海人)・糺(糸の下にある小を取る)軍など有ったようです。軍制に府・司・所などが有りました。軍官に天下兵馬大元帥(皇太子か親王)以下、大元帥・都元帥・大詳穏・大将軍・都指揮使・都統軍使・都統など有り、それぞれの下に、さらに軍官が有ります。
都元帥……秦晋王としての耶律涅里は都元帥でした。これは南京(以下燕京)都元帥府の都元帥と考えられます。軍においての燕京の諸司は幾つか有ります。燕京馬歩軍都指揮使司・侍衛控鶴都指揮使司・燕京禁軍詳穏司・燕京統軍司・牛欄都統領司・距馬河戌長司・監軍寨統領司・石門統領司・南皮室詳穏司・北皮室詳穏司・猛曳[てへん]剌詳穏司・管押平州甲馬司などなど。ならび元帥府に隷【したが】い、宋国に備禦するということです。ただし、これらが当時ほんとうにあったかどうかわかりません。皇天中で皮室軍・侍衛軍・統軍しか書いていないのは、『遼史』の本紀などに頻繁に出て来るため、実際にあったであろうと思ったからです。
遼において秦晋王というように、字を重ねることがありました。秦王や晋王より秦晋王のほうの位が上のようです。
四軍……奚王の率いた四軍は、東京(遼陽)の契丹・奚・漢・渤海四軍都指揮使司と考えられます。『遼史』46百官志2。
西南路……新城に屯するにあたり、大石は西南路都統に充【あ】てられました。ほんらい西南路(西南面)は西京(山西大同)諸司で西夏を控制するものです。ほかに西南面節制司・西南面都統軍司など西南辺諸司もあります。『遼史』46百官志2。
常勝軍・怨軍……怨軍八営都詳穏司。天慶六年、秦晋王が遼東の饑民から二万余人を得てつくったようです。のち作乱。郭薬師らの内変で招きに就き、安んじました。奚王は二千人を選び留め四営をつくります。余六千人は悉く燕・雲・平に送られ、禁軍(近衛軍)に充てられました。郭薬師は常勝軍都管押諸営上将軍と称しています。『遼史』46百官志2・『契丹国志』11天祚皇帝中。
痩軍……奚王は、東西の奚人二千人などを籍(登録)することを建議しました。また、女直軍の起兵に遭って山谷・沙漠間ににげていたものらは、秦晋王が立ったのを聞き、内向しないことありません。しかし、人馬の饑の甚だしさから、遠くから来られない。そこで州県に令して招かせ、万余を得たといいます。これが痩軍と謂われました。正式名称や実態はわかりません。『契丹国志』11。
赭袍……赭は“あかい色”。しかし、朱でもない紅でもない。なんだ? 袍は袷(あわせ)。
(管理人註:あかつち(赤土)色を指す言葉らしいです。色見本はこちら)
左衽窄袖の紫袍と折上巾……契丹族の服(国服)は、現代の旗袍(チャイナドレス)を左であわせる形に似ているようです。遊牧民なので下は袴と長靴。六合靴は少し短い。ただし、儀式用に中国式(漢服)の冠・大袖・裙・履などを使用したようです。折上巾は唐からあるボク[巾・僕の旁]頭という、かぶりもののことです。これは遼・宋も同じ。烏巾また烏紗帽などは黒い頭巾でしょうけれども、折上巾と違うの? 『遼史』56儀衛志2・『契丹国志』23衣服制度など。
契丹人は国服のとき袖をまくり、上着の端をめくっていたりしたようです。
髪は満州族の辮髪と違うみたい。こめかみあたりを残し、ほかを剃ってしまいます。
女性は直領左衽の長衣です。ただ馬に乗るために下は袴でしょう。
新城……地形そのほかは、現代の地図での正確な位置確認をできませんでした。新城〔県〕・雄〔県〕・白溝河などの名は現在あります。しかし、白溝河の流れや名称が変わったのでしょうか? 当時と現代の地図とで、だいぶ違うような気がします。だから一つ一つ確認できません。まあ、1〜50話における大石の実際の行動範囲は、だいたい河北省北部から山西省北部および内モンゴル自治区です。
盟……セン[さんずい・亶]淵(河南濮陽西南)で締結された盟の事です。遼の統和二十二年十二月九日(『遼史』14聖宗5。1005年1月27日)に和が定まりました。宋において景徳元年十二月四日(『資治通鑑長編』58。グレゴリウス22日)か七日(『宋史』7真宗2。グレゴリウス25日)の事とされています。
拝……契丹人の礼拝は『東京夢華録』6元旦朝会を、女直人のは『三朝北盟会編』3を参考。
西瓜……『新五代史』73四夷附録2に載っている胡キョウ[山・喬]の記事(『陥北記』)。
安否……『礼記』8文王世子。
点心……当時から点心はあったようです。契丹人の食生活は、原典史料の少なさから再現できません。女直人の場合『三朝北盟会編』3や4(『茆斎自叙』)・『北轅録』などから採りました。
胡旋……小説本文にあるように白居易の『新楽府』の胡旋女です。踊りは『通典』146楽6四方楽の康国楽。舞った後の余里衍の行いは『輟耕録』28解語杯を参考。
燦然……大石のお見合いに使ったのは『夢渓筆談』9軟槃【なんはん】の記事。
書禁……『夢渓筆談』15に「契丹書禁、甚厳伝入中国者、法皆死」とあります。
殿下……『事物紀原』2公式姓諱部8殿下や『石林燕語』2など。皇帝を陛下、皇太后・皇后・皇太子を殿下と呼んだようです。これは時代によって違いました。
ジキリ……『燕北録』の文「戎主太后噴嚔【てい】(くしゃみ)、近侍臣僚斉声呼治キ離。猶漢呼万歳也」(キは表記不可能。私のコピーした版本の不鮮明さから『大漢和辞典』から、この記事を引いています)
送血涙……『大金国志』39初興風土。『三朝北盟会編』3。『三朝……』に阿骨打が「以刀リ[未・攵・厂・刀]面仰天哭曰……」とあるので、すなわち阿骨打の額に傷があるはず。
うっかりしていました。皇天に書きましたけれど、『後漢書』19耿エン[合・廾]/耿秉【こうへい】に「匈奴聞秉卒、挙国号哭、或至リ(ここは梨の本字。意味同じ)面流血」、『通典』197辺防13北狄4突厥上に「有死者、停屍於帳、子孫及諸親属男女、各殺羊馬陳於帳前、以刀リ面且哭、血涙倶流、如此者七度、乃止」とあります。
大発見!! みなじり先生に教えて頂きました。松平千秋訳注ヘロドトス『歴史』に次のような文があります。
「……〔ブバスティスの祭の〕犠牲式の終った後、実に幾万という男女がことごとく、自分の体を叩いて悲しみを示すのであるが、誰を悼んで体を打つのか、ということは憚りがあるのでここにはいえない。エジプトに居住するカリア人のすることは、それよりももっとはなはだしく、小刀で自分の額を傷つけるのであるが、これをもってしても彼らが外来のものでエジプト人でないことがよく判る。」(巻二第六十二節。このあと2−62とします)
ヘロドトス(キリスト教紀元前485ころ〜425ころ)の時代に同じ風習があったということになります。
さて、このカリア人およびカリアは何であろう。
「……これらのイオニア人の話している言葉は同一のものではなく、四つの方言に分かれている。イオニアの諸都市の内、最も南方の町はミレトスで、つづいてミュウス、プリエネがあり、これらの町はみなカリア地方にあり、お互いに同じ方言を使っている。……」(1−142)
「……カリア人は、島から大陸に渡ってきたものである。というのは、古くはミノス王(クレタの王)の支配下にあってレレゲス人と呼ばれ島に住んでいたのである。……。カリア人の発明にかかるもので、ギリシア人も用いたものが三つある。すなわち兜の頂に羽飾りをつけることと、盾に紋章をつけるのを発明したのがカリア人であり、また盾に把手をつけたのも彼らが最初である。それまでは盾を使うものはみな、把手なしで持ち歩いていたもので、頸から左肩に懸けた革帯で処理していたのである。
その後ずっとたってから、ドーリス人とイオニア人とが彼らを島から逐い、かくして大陸へ移ってきたのであった。」(1−171)
現在、ミレトスの遺跡は、バルカン半島でなく小アジア(アナトリア)西南部にあります。
雙陸……日本における児童用の“すごろく”でなく“バックギャモン”(西洋すごろく)と考えられます。『松漠紀聞』1に「〔大石〕後与尼瑪哈雙陸、争道、尼瑪哈心欲殺之」、『契丹国志』19に「与尼雅満為雙陸戯、争道相忿、尼雅満心欲殺之」(両文の違いは、さらに先行していた原典の存在を、私に感じさせます。字の違いは四庫全書編集の段階。たぶん尼瑪哈と尼雅満は粘罕と書かれていたのでしょう)とあるので皇天に用いてみました。雙を双としなかったのは、たんなる気分。
拐子馬……『宋史』366劉リに出ています。実を言うと僭偽列伝に採り上げた冉閔も、これを使った鮮卑兵に敗れました。『晋書』107載記7石季龍下。
サマン……珊蛮(近古音サンマン、現代音シャンマン)。サマンとしたのは満洲語のsamanから。『三朝北盟会編』2に「珊蛮者女真語巫嫗也」とあります。いわゆるシャーマン。女直語が発祥か?
クス=オルド……虎思斡耳朶。「思亦作斯、有力称。斡耳朶、宮帳名」(『遼史』116国語解)。『〔耶律楚材〕西遊録』に虎司窩魯朶とあります。トルコ語で力をギュチ、モンゴル語でフチ(“フ”は軟口蓋摩擦音。だから“ホチ”に聞こえるでしょう)、文語でクチュです。それらに近いような。トルコ語で軍をオルドゥ、中央をオルタ、モンゴル語で館をオルド。
カトン城……鎮州可敦城。近古音はコドゥンとなります。参考文献からカトン(皇后。あるいはカトゥン)にすることにしました。「オルホン河とソーラ河にはさまれた、現在のモンゴル国ボルガン県ダシンチレン郡のチン=トルゴイ(丘)の麓にある」(白石典之『世界の考古学19 チンギス=カンの考古学』21頁)。また42話で「古くから匈奴・突厥・ウイグルなどの王庭」と書きましたけど、「遺跡分布をみると、匈奴(前1〜後1世紀)から突厥第一可汗(552〜630)の遺跡は、オルホン平原にはほとんど見られず、多くはハンガイ山地北のタミル河とハヌイ・フヌイ両河流域に残されている」(同147頁)ということだそうです。
青海塩……以前、みなじり先生に手料理で頂きました。いつか、この塩のことを書こうと思っていましたけど、原典史料が無くて……。今回、李遠『青唐録』を手に入れましたので。
ブラーハマナ……ふつうブラーフマナ。サンスクリット語です。いわゆる婆羅門。なぜか、そのままバラモンといわれますね。バルナ(カースト)の最高位。またブラーフマナは文献群を意味します。ちなみにブラフマンは宇宙の根本原因(梵)、ブラフマーは梵天です。まったく皇天の話と関係ありません。
颯秣建……『大唐西域記』1での表記。ほか尋思干(『遼史』30耶律大石・『元史』149郭宝玉。ただし尋に手偏付き)・邪米思干(『長春真人西遊記』)・薛米思堅(『元朝秘史』続1)・薛迷思干(『元史』120察罕)などあります。当時のサマルカンドは市の中心から北東にある“アフラーシヤーブの丘”(『旅行人ノート6 シルクロード 中央アジアの国々』)。はじめセミスケントとしたのは小林高四郎『モンゴル史論考』の〈サマルカンド地名考(余白録)〉からです。今、ウズベキスタンの都市。
ムスリム……イスラム教徒。女性はムスリマ、複数はムスリムーンです。漢文によるイスラム教徒の記述は『唐会要』100大食から。
大食……もともと漢文でイスラム帝国を表していました。白衣大食がウマイヤ朝、黒衣大食がアッバース朝。末換としたのはウマイヤ朝の第14代さいごのカリーファのマルワーン2世(在位744〜750)、阿蒲羅抜はアブー=ル=アッバース(在位750〜754)です。
皇天において当時の大食をタジク(タージーク)の音訳とし、その実体をカラハン王朝としました。
タジクはアラビアのタイー族からきているそうです。初め中央アジアの人がイスラム教徒をタジクと呼び、ペルシア人がイスラム教に改宗すると、トルコ人は彼らをタジクと呼ぶようになって、ペルシア人も自らをタジクとするようになったとか。やがて、ペルシア語文献においてトルコ人(遊牧民・軍人)と対比する形(定住民・文人)で使われるようになったそうです。現代タジキスタンのタジク人はイラン系の民族で、19世紀半ば以降の名称(『岩波イスラーム辞典』・平凡社『世界大百科事典』)。
また、サルターウル(サルタークタイ)は漢字表記で撒児塔兀勒・撒児塔黒台(ともに『元朝秘史』続1)など。サンスクリットのサールタ(隊商)を語源とし、近代にサルトとなり、現代つかわれておりません。カラハン朝時代の“商人”、モンゴル帝国時代の“中央アジアの商人”、ティムール朝時代の“イラン系のオアシス定住民”、ウズベク時代から“オアシス都市の定住民一般”(平凡社『世界大百科事典』)だそうです。
アフラーシヤーブ……アフラシヤブ。フィルドゥーシー『王書』に現れるトゥーラーンの王です。よくアフラースィヤーブと書かれています。外国語のsi(無声歯茎摩擦音+非円唇前舌狭母音など)と日本語のシ(無声後部歯茎摩擦音+やや広い非円唇前舌狭母音など)の違いです。
ファルス……ペルシアです。ペルシア語でファールシー(ファールスィー)、トルコ語でファルス、アラビア語でファーリスというそうで。アラビア語にアジャム(外国人)というのもあります。しかし、当時、ペルシアという概念がどうだったか……わかりません。イーラーン(イラン)は?。
カラー=カーガーン……カラハン朝の王号。
カラハン朝をイリグハン(イレクハン)朝とする文献もあります。中央公論社『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』325頁に「カラーハン王朝のなまえは、じつは便宜的に後世の古銭学者が名づけたものにすぎない」とあるので、皇天で使えません。ハーカーン朝(黒柳恒男訳注『ペルシア逸話集』)やアフラーシヤーブの子孫(佐口透訳注『モンゴル帝国史』第1篇補注6)とよばれたようです。また、平凡社『アジア歴史事典』と、おなじ平凡社の『新イスラム辞典』でカラハン朝の系図に大きな違いがあります。あえて、このカラハン朝をべつの名でよぶとすれば、王朝としてアフラーシヤーブ朝、国号にかわるものとしてトゥルキスターンなどでしょう(アラビア語でトゥルキスターン、ペルシア語でトルケスターン。愛宕松男訳注『東方見聞録』第7章の大トゥルキー王国)。
この王朝の起こりについて、有力なものとしてウイグル説やカルルク説などあります。かんたんにまとめてみますと、840年か940年ころベラサグンからはじまり、955年イスラム教にあらため、999年にサーマーン朝をほろぼし、1006年までにコータンにはいり、のちガズナ朝・セルチュク朝・グール朝そして遼朝とあらそい、1041年か1042年にシール=ダルヤーをはさんで東と西に分かれ、東は1211年、西は1212年までつづきました。そのあいだ、わかれて、おたがい攻めあっていたようです。
ヌーハの子ヤーフィス……箱舟のノアと、その第三子ヤペテ(『旧約聖書』創世記5−32ほか)をペルシア語で言うとヌーハ(ふつうヌーフ)とヤーフェス。それをアラビア語風にしました(ヤーフィスは、ただ“エ”を“イ”にしただけ。だって大きな“アラビア語辞典”を見つけられなかったもん)。ヤペテは佐口透訳注『モンゴル帝国史』第1篇補注5にひくラシード『集史』に「ノアの子、アブルチャ・カン……ヤフェトの子のディブ・バクイ……の子のカラ・カンの子のオグズは……」(記号と文をいくらか省略しました)というようにヤフェトとあります。ちなみにヘブライ語でノーアハとイェペト。ギリシア語のノアはノーエ、ヤフェトはヤフェトらしい。
カン……ふつう、カンを王、カーンを皇帝としたりしますね。前に書きましたけど、一応。現代モンゴル語でハンとハーン(ハアン)、文語でカンとカガン。トルコ語でハンとハカン、ペルシア語(アラビア語?)でハーンとハーカーンかカーアーンとなっているようです。漢文で汗・罕(干・漢……)、大汗や可汗・合罕など。大汗を日本語で大カン(大カーン)としたりします。さいきんカハーンやカアンなる表記なども見られるようになりました。そういうことで時・所や書物・文字によって違うので困ります。皇天は大遼皇帝をカガンとすることにしました。
これも先に書きましたけれど、皇后は現代モンゴル語でハタン、文語でカトゥン、トルコ語でハートゥン(?)、ペルシア語でハトゥーン。皇天はカトンとします。言語によっては“ウ”と“オ”を区別しないようなので。
無声軟口蓋摩擦音(アラビア語のkh)と無声口蓋垂摩擦音(現代モンゴル語ハーンのハ)は、すべて日本語のカ行にしました。
払林[くさかんむり]……イスタンブル(現代トルコ語音。アラビア語でイスターンブール)のことにしています。あるいは“ビザンツ帝国(東ローマ帝国)”とすべきか? バットゥータ/家島彦一訳注『大旅行記』第4巻第10章注82(略してして『大旅行記』10注82)にクスタンティーニーヤ、注221にアスタンブールの説明がありました。この注によると9〜10世紀から、すでにブーリンやアスタンブールなどとイスタンブルに近い名で呼ばれていたようです。この都市名の現代ギリシア語発音はコンスタンティヌープリか、たんにプーリ(!?)らしい。ここの長音は、ほんとうに長いのでなくアクセント。“ビザンツ帝国”時代の発音はコンスタンティヌウポリスとか。和田廣訳注ゲオルグ=オストロゴルスキー『ビザンツ帝国史』。
ただ、じっさいに、すべての払林がイスタンブルや“ビザンツ帝国”を指していたかどうかわかりません。ほかに『魏書』102西域に伏慮尼、『梁書』54諸夷/西北諸戎/波斯国)に汎慄、『南史』79夷貊下/西域諸国/波斯国)に泛慄などあります。
ルーム……ペルシア語やアラビア語でルームです。これは、じっさいのローマでなく、“ビザンツ帝国”のことで、さらにギリシアのこと。
タクフールとファグフール……『大旅行記』10注130。アラビア語で“ビザンツ帝国”皇帝をタクフール(タカフール)と呼んだらしい。語源はアルメニア語のタカボル(意味不明。古典アルメニア語の王はアルカー。佐藤信夫『古典アルメニア語』)。ちなみに“ビザンツ帝国”皇帝はヴァシレフス(ほかアフトクラトルとかモナルヒス。尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』)と称するらしく、インペラートルやアウグストゥスといわないようです(カエサルはケサルという爵位に。神聖ローマ皇帝はロマノルム=インペラトル=アウグストゥスなど)。また、東にいる皇帝をファグフール(バグフール)と呼んだとか。語源不明。
ファランジ……永田雄二『新版 世界各国史9 西アジア史2』109頁から。“ファランジュ”または“イフランジャ”という「当時西ヨーロッパの人々を汎称する民族名で呼ばれた」とあります。アラビア語辞典に“西洋〔の人〕”をファランジーとかイフランジーとかあります。これと同じか?
有声後部歯茎摩擦音(よく“ジュ”と表される)は、原語に母音が付いていない限り、すべて“ジ”としました。
ジャイホーン……ふつうジャイフーン(ジェイフーン)。アーム―=ダルヤー(アム=ダリヤ)です。パミール高原からタジキスタンとアフガニスタンの国境、トルクメニスタンからウズベキスタンへ、そしてアラル海に。全長2620キロメートル、流域面積約465000平方キロメートルほどになるそうです。ギリシア語でオクソス(村川堅太郎訳編『プルタルコス英雄伝』筑摩書房/1996/アレクサンドロスの57節)。ただ『ギリシア語辞典』(古川晴風/大学書林/1989)に、オークソスはダレイオス2世の別名などとか。ラテン語でオクソス(参考文献にオクススとあります。しかし田中秀央『研究社羅和辞典』、アケメネス朝ペルシアでバクサ(松崎光久訳注『耶律楚材文集』の『〔耶律楚材〕西遊録』の注40)、ササン朝ペルシアでウェーローズかベーローズ(平凡社『アジア歴史事典』アム=ダリヤ)、漢字でギ[女・爲]水(『史記』123大宛)、烏許水(『魏書』にあるらしい)、烏滸水(『新唐書』221下/西域下/火尋)・縛蒭河(『大唐西域記』1)・阿梅河(『元朝秘史』続1−258)・阿謀(『〔耶律楚材〕西遊録』)・阿母河(『元史』3憲宗)・暗木河(『元史』149郭宝玉)など。
サイホーン……ふつうサイフーン(セイフーン)ですね。シール=ダルヤ―(シル=ダリヤ)のことです。天山山脈(キルギスタン)からのナリン〔河〕とカラー=ダルヤーがフェルガーナ盆地(カザフスタン)で合流し、タジキスタンを通り、ふたたびカザフスタンに入って、アラル海へそそぐ。フェルガーナ盆地から2212キロメートル、流域面積約220000平方キロメートル。ギリシア語でヤクサルテス(平凡社『アジア歴史事典』。『プルタルコス英雄伝』アレクサンドロス45のオレクサルテスも?)、ソグド語でヤフシャールト、中世ヨーロッパでハシャルト。このふたつは未確認。漢字で薬殺水(『新唐書』221下/西域/石)・真珠河(『新唐書』43下/安西)・霍闡【かくせん】没輦(『長春真人西遊記』)・忽牽河(『西使記』)・忽章河(『元史』149郭宝玉)・火站河(『明史』)。イスラム帝国時代からサイフーンで、モンゴル帝国時代からシル=ダリヤと呼ばれたとか。
アミール=ル=ムーミニーン……イスラム教徒の指導者。カリーファ(ハリーファ。いわゆる“カリフ”。もっと正しくはカリーファト=ラスール=アッラー〔ハ〕)より使われたらしい。また、イスラム教徒もムスリムでなくムーミンとなっています。
捕褐……ブカーラー(アラビア語)やボカーラー(ペルシア語)とか。ふつう参考文献にブハラやボハラなどとあります。ウズベキスタンの都市。漢字で副貨(『魏書』102西域・『北史』97西域)・捕褐(『大唐西域記』1)・布豁(『新唐書』221下/西域下/康/安)・不合児(『元朝秘史』続1)・不哈児(『聖武親征録』)・卜合児(『元史』1太祖)・蒲華(『元史』1太祖・120察罕)・孛哈里(『元史』150耶律阿海)などなど。
多邏斯……『大旅行記』11注125にアトラーズ・タラーズ・タラス。現在のキルギスタンのタラスでなく、カザクスタンのジャンブル(ジャンブイル?)らしい。『大唐西域記』1に旦[口偏]邏私城、『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』2に旦[口偏]邏斯城、『新唐書』43下/安西や221下/西域下に怛邏斯城、『資治通鑑』216天宝十載に恒羅斯城、『長春真人西遊記』に塔剌速、『〔耶律楚材〕西遊録』に塔剌思城など。『新唐書』215下/突厥下/西突厥に多邏斯川とあるのを採用しました。
セルチュク……セルジューク朝(セルジューク=トルコ。1038〜1194)を当時の人は何と読んでいたのでしょうか? 現代トルコ語でセルチュク(セルジューク族をセルチュクル)、現代ペルシア語でサルジューグ(語尾を濁音とするようです。セルジューク王朝はサルジューギヤーン)。わからないのでアラビア語でサルジュークと呼んでいたということにしました。初代はセルチュクの孫トゥグリル〔=ベグ〕(現代トルコ語でトールル〔=ベイ〕。大鷹の意。990〜1063)。1038年にニーシャープールにはいり(これをセルチュク朝の始まりの年とします)、1040年ガズナ朝をやぶり、1055年にアッバース朝の第26代カーイムから史上初めてスルターンをさずかります。
また、セルチュク朝は、ほかにルーム・ケルマーン・シリア・イラクに分家を立てました。
マー=ワラーア=ン=ナハル……アームー=ダルヤーとシール=ダルヤ―に囲まれた地(つまりサマルカンドやブカーラーが含まれます)。ふつうマーワラーアンナフル(マベランナール?)とか表記。“河の彼方の地”の意味らしい。可能な限り、もとの意味まで追いかけていますけど、発音その他で参考文献と違う場合、困ってしまいます。“マー”は“土地”の意味らしいのですけど、辞書に載っていません(水の意味あり)。ワラーァは彼方、ナハル(ナフル)は河です(ンは冠詞アルの変形……でこうなると思います)。また、意味だけでなく発音(特に語尾)をどうしたらいいのでしょうか? とりあえず現代アラビア語辞典で調べた範囲で使っています。
バラーサーグーン……アラビア語やペルシア語でバラーサーグーン、トルコ語かウイグル語でベラサグンということにしています。漢語で裴羅将軍城(『新唐書』43下/地理7下)。田中萃一郎訳補のドーソン『蒙古史』〈附録註第五/畏兀児人〉にBelaーSagounとあります。つまり、ベラ=サグンかバラー=サーグーンなのでしょうか? 遺跡の場所はキルギスタン(最近クルグズスタン)のトクマク南南西ブラナ村あたりらしい(田中哲二『キルギス大統領顧問日記』。
ガズナ……アフガニスタン(アフガーニスターン)のガズニ(ダリー語)です。ペルシア語でガズニーン。カーブル南西にあります。漢字表記は『大唐西域記』12に鶴悉那、『宋史』490外国6天竺のガ[言・我]惹曩【がじゃくのう】も? 本によってガズニーとかガーズナとなっていたりします。ガズナ朝(977〜1186)の都でした。ガズナ朝は黒柳恒男訳注『ペルシア逸話集』に“ナースィル・ウッディーン一門”とあります。
10世紀後半からアフガーンという語はあったようです。また、パターン(パシュトゥーン)は14世紀前半〜15世紀から(『大旅行記』11注237)。
マハムード……マフムードとかマームードとか書かれます。生没年971〜1030。ガズナ朝最盛期のアミール(総督・司令官など。ガズナ朝のばあい国王でしょう。998年継ぐ)。スルターンを自称し、ヤミーン=ダウラ(〔アッバース〕王朝の右〔手〕)と呼ばれます。領土をガンガー(ガンジス)からクラーサーン(ホラーサーン。イラン西の州)まで広げました。
ブカーラーのサーマーン朝(イラン系。875〜999)を攻めるため、ウズケンド(現オズギョンとかオズガン)にいるカラハン朝のナスルはマハムードに娘を娶わせます。ナスルは999年10月23日、ブカーラーに入城し、サーマーン朝を亡ぼしました。
遼の聖宗の開泰九年十月壬寅(二十五日。1020年11月18日)大食国が使を遣わし象および方物を進め、子の冊割のために婚を請います。太平元年三月(1021年4月〜5月)大食国王がふたたび使を遣わし、婚を請うたところ、王子班郎君胡思里のむすめ可老を封じて公主とし嫁がせました(この耶律胡思里と耶律可老は不明)。
「イスラム側の史料によるとこの聖宗の書簡をたずさえた遼朝の外交使節が、ウイグル人の副使をともなってはるばるアフガニスタンのガズニ朝の名主スルターン・マハムードの宮廷を訪れたが、この書簡の中には、遼の公主と、当時東西トルキスタンを支配していたカラ・ハン朝の王子とが結婚したことがしるされていたという。さきの大食はカラ・ハン朝だったのである」(河出書房新社『世界の歴史10 西域』276頁)。つまり、遼朝からカラハン朝へ公主を、カラハン朝からガズナ朝へ王女を嫁がせたということです。しかし、マハムードがインド遠征に向かったところ、1006年、ナスルは、クタン(コータン)の、やはりカラハン朝のユースフとともに、マハムードが占領していたクラーサーンに入りました。つづいて1017年、遼朝が、これまたカラハン朝のトガン(ユースフの弟)のいるカシガルを討ちます(後藤十三雄訳注ルネ=グルセ『アジア遊牧民族史』第1章)。ナスルは敗れ、遼朝は退きました。遼朝によるカシガル遠征は『遼史』にありませんし、『アジア遊牧民族史』に用いられた原典史料・参考文献を、いまのところ閲覧できませんので、その真偽を確認できません。
グーリスターン……グール地方なのですけれど、グール国という意味で使うことにしました。アフガニスタンのグール朝(1000ごろ〜1215)のつもり。『ペルシア逸話集』でシャンサブ家とあります。グールとしなかったのは、耶律大石の称号グル=カン(アラビア語・ペルシア語で、たぶんグール=カーン)とまぎらわしくなるから。まえにグーリーヤとしていました。『大旅行記』11に「注175グーリーヤ(al−Ghuriya):グール地方(Ghuristan)に住む山岳民族のこと」(長音記号省略)とあるので、それを、かってに転用してしまったのです。また、サマルカンド・ガズナ・コラズムと地名をつづけましたので、やはりグールも。……それと、この地名の、ペルシア語での発音はゴールでなくグールでした。お詫びと訂正をいたします。すみません。ちなみに現代ペルシア語でグール朝はグーリヤーン。
やや詳しい地図(各国の州や県を記載しているもの)を見ると、ヘラートのあるヘラート州の東にゴール(ゴウル)州があります。しかし、地元のダリー語やパシュトー語でいうとゴールやグールでなくゴーラートらしいのです(縄田鉄男『パシュトー語基礎1500語』『ダリー語基礎1500語』。ただし、ダリー語でダリー語のことをファールシーすなわちペルシア語といいます)。このゴーラートと地図上のゴール州、そしてグール朝をつなげていいものやら。さらに、ヘラートの西にグーリヤーンという町があったり、地名辞典によってゴールの説明がバラバラだったりします。困ってしまいました。
TBS『世界遺産』第359回2003年7月13日放送“ジャムのミナレットと遺跡”を見ました(参考文献からするとジャムでなくジャーム。ミナレットはヨーロッパ諸国語で訛った発音らしい。アラビア語でマナーラ)。この“ジャームのマナーラ”はグール朝のギヤース=ディーン(1163〜1203)がイスラム歴590年(1193か1194)に建てさせた戦勝記念の塔です。前嶋信次『イスラムの時代』(まえは講談社『世界の歴史10 イスラムの時代』)に「グール朝の都は、アフガニスタンの中部に秘境として残された深い山地を西流するハリー川の渓谷中にあったフィールーズ・クーで、現在では、めったに旅人の訪れることもない、僻地となっている。1957年にフランスの考古学者アンドレー・マリクが、この渓谷で、高さ60メートルの円筒形、三層の世にも美しいマナーラ(イスラムの光塔)を発見した。ジャームの光塔と呼ばれるもので、……」とあります。
“ジャームのマナーラ”の話やジャームという村?の所在地、フィールーズ=クー〔ハ〕のことは、あまり一般の文献に載っていません。また、TBS『世界遺産』のサイトもジャームについて「〔グール朝の〕首都と断定はされていない」といっています。
かりに、こうしておきましょう。グール朝の都城フィールーズ=クーは、アフガニスタンのヘラートの東、ハリー河に沿っているゴーラート州のジャームらしい。
グール朝の王らは自称スルターン、ほんらいアミールです。用いていたマリク=ル=ジバールというのは“山の王”(『ペルシア逸話集』。マリクル=ジバールとしてあります。ジバールは山ジャバルの複数形。だから山々か山脈でしょうか?)。
テュルク……トルコ。現代トルコ語でトルコ人はテュルキエ、トルコ語はテュルクチャ。アラビア語でトゥルキヤー、ペルシア語でトルク(トルコ人・トルコ語をトルキー)というそうです。
古回鶻城……『遼史』2太祖下。卜古罕城(『遼史』30耶律大石)とか窩魯朶城・龍庭単于城(『遼史』93蕭図玉)と表されました。オルドゥ=バーリクやカラ=バルガスンというのが参考文献に載っています。モンゴル語で城(廃墟)をバルガス。その遺跡ハル=バルガズは、モンゴル帝国の都カラ=コルムの遺跡(モンゴル国ウブル=ハンガイ県ハル=ホリン郡)から北約20kmにあるそうです(『チンギス=カンの考古学』)。
ユチュケン山……どうやらモンゴルのブルガン〔県〕というところにあったらしいそうです。ユチュケンという表記は平凡社『世界大百科事典』から(手抜き?)。鬱督軍山は『新唐書』217下/回鶻下/薛延陀ほかでの表記です。前掲書215上/突厥上や『隋書』84北狄/西突厥に都斤山、217上/回鶻上や43下/中受降城に烏徳ケン[革・建]山、『唐会要』100葛邏禄国に烏徳ケン[牛・建]山とあります。『旧唐書』195廻コツ[糸・乞]に烏徳健山。
セレンゲ河……モンゴルの地図を見ると、セレンゲ河は、ブルガンをよこぎり、オルコン(オルホン)河を合わせ、国境を越えてバイカル湖に流れ込みます。上記と同じく『新唐書』に仙娥河。オルコン河は、やはり『新唐書』43下/中受降城にオツ[口・囚・皿]昆河、217上に昆河、『元朝秘史』続3に薛涼格河と斡児罕とあります。
五城……『旧唐書』40。ベシ=バリクとかビシ=バーリクだとか参考文献に載っていました。漢字表記で、だいたい別失八里、ほか別石八里(『元史』3憲宗)・鼈里馬大城(『長春真人西遊記』)。トルコ語で五をベシ、住居をバルクというそうです(ならベシ=バルクにすればよかったかなあ)。この地は漢代の車師後国、突厥の可汗浮図城、唐代の北庭都護府、のち大回鶻国(西ウイグル王国)の避暑地となります。いま新疆維吾爾自治区烏魯木斉市の東165キロメートルの吉木薩爾から北へ12キロメートル北庭故城(『旅行人ノート6 シルクロード 中央アジアの国々』。
クタン……いわゆるコータン(ホータン)。新疆維吾爾自治区和田地区和田市。アラビア語(とトルコ語)でクタンということにしています。于テン[穴・眞](『史記』123大宛伝、『後漢書』88西域伝)・于テン[門・眞]国(『漢書』96西域伝・『新唐書』221上/西域上・『新五代史』74/四夷附録3など多数)・于遁と屈丹(『大慈恩寺三蔵法師伝』5・『新唐書』221上/西域上)・渙那(『新唐書』221上/西域上)・豁旦(『大慈恩寺三蔵法師伝』5・『新唐書』221上/西域上)・兀丹(『元朝秘史』続1)・五端(『〔耶律楚材〕西遊録』)・斡端(『元史』120曷思麦里)・忽炭(『元史』63地理6)・兀敦(『元史』122巴而朮阿而トク[心・弋]的斤)・瞿薩旦那(『大唐西域記』1・『新唐書』221上/西域上)などの漢字表記のほか、コータン(愛宕松男訳注『東方見聞録』第1章57。1−57とします)・フタン(『大旅行記』11注57)・オドン(ウイグル文書)。唐代の遺跡は和田市西南の約特干(ヨートカン)など。
愛宕松男訳注『東方見聞録』1−57−注2に「十一世紀早々をもって……カラカン王朝の将軍ユースフ・カドゥル・カンは首都コータンを破壊し尽くし、東南七マイルの地に新都を構築した」とあります。先のマハムードの項で、1006年に、クタンにカラハン朝のユースフなるものがいました。『宋史』490外国6于テンに「〔開宝〕四年(971年)其国僧吉祥、以其国王書来上」「大中祥符二年(1009年)其国黒韓王遣回鶻羅廝温等、以方物来貢」とあります。971年に僧(仏教やマニ教の)が国王の書をもたらし、1006年にユースフがいて、1009年にその王は黒韓王となってウイグル人を遣わすのですから、1006年ころまでにカラカン朝はクタンを占領したものと考えられます。高昌国とカラカン朝の違いはイスラム教。高昌国ではやっていたのはマニ教らしいのです。ここの黒韓をカラカンと読むことがありますけど、あるいは可汗のつもりでしょうか?
匈奴……皇天に遊牧民による帝国を書き連ねました。
匈奴の原典史料は『漢書』94上/匈奴伝と『後漢書』89南匈奴。
鮮卑は『後漢書』90烏桓/鮮卑、『三国志』30鮮卑。
柔然は『魏書』103蠕蠕、『宋書』59ゼイゼイ[くさかんむり・丙]虜。
突厥は『周書』50異域下/突厥、『隋書』84北狄、『旧唐書』194突厥上下、『新唐書』215上下/突厥上下。
訳注・参考として平凡社『騎馬民族史』があります。
ウイグル……ウイグル語で(もちろん)ウイグル(だろ?)。ペルシア語(アラビア語?)でウーイグール。漢字表記は唐代に廻コツ[糸・乞]・回コツです。唐の徳宗皇帝の貞元四年十月戊子(十四日。788年11月20日)に回コツの使者は長安に至り、回コツを改めて回鶻に為すことを請うて許されました。宋・遼・金代、ほぼ回鶻です。元代から畏吾児(『元史』1太祖)・畏兀児(『元史』122巴而朮阿而トク[心・弋]的斤)ほか。現在、維吾爾(ただし簡体字)と表記します。
以下、特に記載しなければ、原典史料は『旧唐書』195廻コツ[糸・乞]・『新唐書』217上下/回鶻上下ほか『資治通鑑』で、参考文献は上記の『騎馬民族史』です。
唐の玄宗皇帝の天宝三載八月(744年9月〜10月)、薬羅葛骨力裴羅(ヤグラカル=クトルグ=ボイラ)が突厥の乱れに会し、骨咄禄毘伽闕可汗(クトルグ=ビルゲ=キュル=カガン)を自称し、牙(本営。回鶻城)をユチュケン山とオルコン河の間に徙しました。いくつかの参考文献は、この時期の回鶻を遊牧ウイグル王国とします。ほかに“東ウイグル・カガン国”(安藤志朗/トルコ系諸王朝の国制とイスラーム/『講座イスラーム世界3 世界に広がるイスラーム』)。
皇天に十三代九十六年と書きましたけど、薬羅葛氏は第6代までで、第7代は[足・夾]跌【けつてい】(エディズ)氏の骨咄禄(クトルク)が可汗となり(貞元十一年四月。795年4月〜5月)、つづくようになりました。また、つぎの第8代に滕里野合倶録毘伽可汗を数えると、ぜんぶで13代、数えないと12代となります。
文宗の開成五年九月(840年ほぼ10月)、回鶻の別将句録莫賀(キュリュグ=バガ)が黠戞斯(キルギズ)十万騎を引いて回鶻を攻め、これを大破。第12(13)代コウソウ[厂・盍][馬・及]可汗を殺しました。回鶻諸部は逃散してしまいます。烏介特勒は錯子山(不明)を保ち、厖特勒(マン=テギン)は葛邏禄(カルルク)に奔り、残余は吐藩(当時、甘州張掖――甘肅省酒泉地区張掖市――などは吐藩の支配下にありました)・安西(亀茲――新疆維吾爾自治区阿克蘇地区庫車県)に入ります。
烏介は武宗の会昌六年七月(846年8月)その下の殺すところとなり、弟の遏捻特勒が立ちます。遏捻は宣宗の大中二年正月(848年2月〜3月)唐が遏捻を取ろうとしたところ、遏捻は懼れて西に走りました(このあと不明)。室韋が、その余衆を分けたのち、キルギズが室韋を大破して収めます。のこりの帳は山林の間に伏して諸蕃を狙盗して自給し、ようやく厖特勒に帰しました。
厖特勒は可汗を自称、葛邏禄に奔ったはずなのに甘州に居し、磧西諸城を有します。大中十年十一月辛亥(十二日。856年12月16日)宣宗皇帝は冊してオン[口・囚・皿]禄登里邏汨没蜜施合倶録毘伽懐建可汗(ウルグ=テングリデ=クト=ブルミシ=アルプ=キュリュグ=ビルゲ=懐建=カガン)としました。このウイグルを“サリ=ウイグル〔黄頭回鶻〕”というとか。
このあと甘州回鶻は後梁・後唐・後晋・後漢・後周・北宋を歴て、すべてに使を遣わし朝貢します。
契丹の太祖の天賛三年十一月乙未朔(一日。924年12月4日)耶律阿保機は甘州回鶻都督畢離遏(ビルゲ)を獲て、因って使を遣わし、その主である烏母主可汗(オルムズ=カガン?)を諭します(『遼史』2太祖下)。
聖宗の統和二十六年十二月(1009年1月〜2月)甘州回鶻を討ち、その王である耶剌里を降らせ、撫慰して還らせます(『遼史』14聖宗5)。また太平六年五月癸卯(二十八日。6月21日)甘州回鶻を伐ち、八月(9月〜10月)甘州を攻めて克たなかった、とあります(『遼史』17聖宗8)。
北宋の仁宗の天聖六年(1028年)西夏の李徳明は子の元昊を遣わして甘州を攻め、これを抜きました(『宋史』485外国1夏国上)。
『遼史』14聖宗5統和二十四年八月(1006年9月)に「是月、沙州敦煌王曹〔宗〕壽、遣使、進大食国馬及美玉、以対衣・銀器等物、賜之」とあります(敦煌の敦は火偏)。沙州は甘州と同じく吐藩に陥っていました。大中五年二月壬戌(十九日。851年3月29日)張義(議)潮が沙州(敦煌)を以て唐に降り、帰義軍節度使となります。後梁の時に至って張氏の後は絶え、曹氏が継ぎました。すなわちウイグル人でなく漢人が州事を領していたのです(もしかしたら張氏も曹氏もウイグル人だったりして……)。そののち北宋の仁宗の景祐二年(1035年)西夏は瓜・沙・肅の三州を取りました(『宋史』485外国1夏国上。沙州敦煌の陥落については、やはり井上靖『敦煌』でしょう)。
安西に入った回鶻は、契丹に回鶻・和州回鶻・阿薩蘭回鶻、北宋に西州回鶻・西州亀茲・亀茲回鶻と称して来貢します。
高昌・回鶻・亀茲などは『宋史』490外国6のなかで別々に記されており、原典史料から個々なのか一つなのか判断できません。しかし、高昌国王も亀茲国王も師子(獅子)王を自称しています。日本において一つとされており、西ウイグル王国や天山ウイグル王国と表現。
阿薩蘭は現代ウイグル語のアルスラン、ペルシア語のアルスラーン、現代トルコ語のアスラン(なぜか“ル”が抜けおちている)で、ライオンのこと。つまり獅子(師子)ですね。ほかの漢字表記に阿思蘭や阿児蘭(『聖武親征録』)・西州外生師子王阿廝蘭漢(『宋史』249外国6高昌国。師子王と阿廝蘭漢とかさねていますけど……)・阿児思蘭罕(『元朝秘史』10)・阿昔蘭罕(『元史』1太祖)とあります。
このアルスラン=カンの都城は、かつて安西都護府のあった亀茲(庫車)でなく、西州高昌でした。高昌は、その音からコチョ(コーチョ? 水谷真成訳注『大唐西域記』)・カラコーコ(愛宕松男訳注『東方見聞録』2−63イコグリスターン国。注1にカラコーソ)など呼ばれるようになります。ふつうカラ=コージョ(ホージョ)。『遼史』における和州や『元史』の火州も高昌の訛らしい。現在、新疆維吾爾自治区吐魯番地区吐魯番市の東南にある高昌故城(イディクート=シャーリ)。貞観十四年八月(640年8月〜9月)麹氏の高昌国が唐に降ります。九月(9月〜10月)その地を西州、可汗浮図城を庭州とし、乙卯(二十一日。10月14日)かつて車師前国のあった交河城(いま吐魯番の西の交河故城)に安西都護府を置きました。しかし、高宗の顕慶三年五月癸未(二日。658年6月10日)安西都護府を亀茲に徙し、高昌を西州都督府とします。また、則天の長安二年十二月戊申(十六日。703年1月11日)庭州に北庭都護府を置きました。
徳宗の貞元六年五月(790年7月)吐藩が北庭都護府を陥れます。このあと、いつ西州を陥れたのかわかりません。
懿宗の咸通七年二月(866年2月〜3月)回鶻の固俊が西州・北庭などの城に克ったと、沙州の張義潮が奏しました(『資治通鑑』250。『新唐書』に「大酋の僕固俊が北庭から吐藩を撃って……西州……等の城を取る」とあります。この時すでに北庭は回鶻に入っていたのでしょうか?(849年?――『マニ教』〈マニ以後のマニ教の年譜 x〉)。このウイグル国は漢文で大回鶻国と自称し(中央公論社『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』302〜303頁)、西からイウグリスターン(ウイグリスタン。ウーイグーリスターン?)と呼ばれました(愛宕松男訳注『東方見聞録』2−63−注1・佐口透訳注『モンゴル帝国史』第1篇補注6「歴史家ラシードは……次のように述べている。……〔耶律大石〕は……次いでウイグリスタンとトルキスタンへ移った」)。王統は元末までつづきます(『新元史』116巴而朮阿而トク[心・弋]的斤)。
さて、厖特勒が初めに奔った葛邏禄は、もと突厥の族です。『新唐書』217下/回鶻下や『唐会要』100に葛邏禄、『元朝秘史』10に合児魯兀、『元史』1太祖に合剌魯など漢字表記は多数。初め北庭の北、金山(アルタイ山脈)の西にありました。しかし回鶻の敵国となって砕葉・怛邏斯諸城に移って居したということです(『唐会要』100葛邏禄)。砕葉は『大唐西域記』1に素葉水、『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』2に素葉とあり、スーヤーブ・スーイアーブ・スイアーブ・スイアブ・スイヤブなどの音をあてられ、その場所はキルギズ(クルグズ)のトクマク(首都ビシュケクから東へ60キロメートル)から南西10キロメートルのアクベシム遺跡。そこから南東6キロメートルにベラサグン遺跡のあるブラナ村があります(『キルギス大統領顧問日記』)。
オグズとトゥルクマーン……オグズは現代トルコ語でオーウズ(オグズ族をオーウズラル)、ペルシア語でゴッズ、たぶんアラビア語でグッズ。オグズ族はセルチュク朝やオスマン朝などを生んだとされていることから、ひとりに人格に集約されています(“ヌーハの子ヤーフィス”の項での『モンゴル帝国史』に引くラシード『集史』)。
トゥルクマーン(アラビア語)はトルカマーン(ペルシア語)・テュルクメン(テュルクメン語・トルコ語)・トルクメン(モンゴル語)などと発音されます。「トゥルクマーンとは、ムスリムとなって、セルジューク勢力に従う者たちにたいして使われることが多く、グッズは、非ムスリム、セルジューク家に関係のない者に使われる傾向がある」(山川出版社『新版 世界各国史9 西アジア史Uイラン・トルコ』81頁)。
さて、『隋書』84北狄/鉄勒・『北史』99鉄勒・『通典』199辺防15北狄6鉄勒などに、鉄勒は「西海(アラル海)之東」から「北海(バイカル湖)南」まで「山谷に依拠」しており、「姓氏は各別といえど総べて鉄勒と為す」とあります。また『新唐書』217上/回鶻上に回鶻について「その先は匈奴である。或いは勅勒といい、訛って鉄勒となった。その部落は袁コツ[糸・乞]・薛延陀……という。袁コツは、また烏護といい、烏コツといい、隋に至って韋コツといった。……突厥に臣となっていた……叛いて去り、自ら俟斤となり、回コツと称した」と(俟斤はイルキンで、契丹の夷離菫「軍・馬を統べる大官」。会同元年十一月――938年11月〜12月――改められ〔大〕王となりました。『遼史』4・116)。この烏護などをオグズと同じとかんがえる説もあります(『アジア歴史事典』オグズ)。
カシガル……新疆維吾爾自治区喀什地区喀什市。アラビア語・ペルシア語でカーシガル。ふつうカシュガルです。漢字表記は疏勒(疎勒)で、ほかに、キョ[にんべん・去]沙(『新唐書』221上/西域上/疏勒・『大唐西域記』12・『大慈恩寺三蔵法師伝』5)・伽師祇離(『往五天竺国伝』)・乞思合児(『元朝秘史』続1)・可失哈児(『元史』120曷思麦里)・甲石哈(『元史』122巴而朮阿而トク[心・弋]的斤)など。ほかに愛宕松男訳注『東方見聞録』2−54にカスカール王国、『大旅行記』11にカーシュハル。
タムガージ……アラビア語やペルシア語でタムガージ、突厥碑文にタブガチ、ユスフ=ハス=ハージブ『クタドグ=ビリク』にタフカチ、“ビザンツ帝国”の文献にタウガスとあるそうで(すべて未確認情報)、『長春真人西遊記』に桃花石とあります。イスラム世界での中国を指す言葉らしい。そのもとは唐家子(唐朝)か拓跋(托跋。北魏)など、まだ定説はないそうです。
余談。ユスフ=ハス=ハージフの墓は、カシガルにあり、そこに玉素?哈斯哈?麻扎(ユスフ=ハズ=ジャジェフのはか)とあるそうです(ダイヤモンド社『地球の歩き方D07西安とシルクロード2003〜2004年度版』)。
コラズム……アームー=ダルヤー流域にあり、その名をウズベキスタンのホラズム州に残しています。“ホラズム”の発音は『旅行人ノート6 シルクロード 中央アジアの国々』にのっていますけど(つまり現地の発音?)、たぶん、無声軟口蓋摩擦音か無声口蓋垂摩擦音だろうと思いますので“ホ”でなく“コ”にしました。さきにコレズムとしていたのはロシア語辞典からの転用。アラビア語でクワーリズム、現代ペルシア語でカーラズムです。漢字表記は呼似密(『魏書』102西域・『北史』97西域)・火辞弥(『唐会要』100・『新唐書』221下/西域下)・火尋・貨利習弥・過利(以上『新唐書』221下/西域下)などなど。
都城はウルゲンチ。古くはグルガーンジで、アラビア語でジュルジャーニーヤとなります。漢字表記は奥ケン[革・建](『漢書』96上/西域伝/康居国)・兀籠格赤(『元朝秘史』続1)・玉里ケン[牛・建](『〔耶律楚材〕西遊録』)・玉龍傑赤(『聖武親征録』・『元史』1太祖)・月亦心(恋)掲赤(『元史』120曷思麦里)などです。当時のウルゲンチは、いまのウズベキスタンのウルゲンチでなく、トルクメニスタン(テュルクメニスタン)のキョネ=ウルゲンチ。
カラ=キタイ……ペルシア語やアラビア語などでカラー=キターイとかカラー=カターイ・カラー=カター(参考文献によってはキタイをヒターやヒターイと発音しています)。耶律大石の国家をイスラム文献でカラ=キタイ、中国文献で西遼と呼んでいる、ということが、ふつうの参考文献に載っていますね。残念ながらイスラム文献(ペルシア語・アラビア語・トルコ語)をじかに見ていないので、確認できません。
耶律大石は、遼朝の後継者として“大契丹”や“大遼”と号したかったはずです。しかしカラ=キタイ? なぜ? もちろん大石も、そう呼ばれることを知っていたのなら、カラ=キタイの号を正式なものとしなかったでしょう。そこで、西域の商人らが、カラ=キタイという語を、天祚皇帝の在位中の、耶律大石の勢力を呼ぶのに使った、ということに私はしました。そのため、この小説においてカラ=キタイの語を早めに出すことにしてします。
カラ(kara)はトルコ語で黒い・暗い・悪い・不幸な……などという意味とか(ほかに陸・大陸。参考文献に強い・民衆などの意味を持つとありますけれど、辞書に載っていません)。モンゴル語はハルで、やはり“黒い”。満州語は黒馬・黒犬などです。ただ、モンゴル語の暴風・暴力は“黒い風(ハル=サルヒ)”“黒い力(ハル=フチ。フは無声口蓋外垂摩擦音)”、満州語の怒急(かんかんに〔おこる〕)は“黒い卒倒(カラ=ファラ)?”と表現するそうで。程度の甚だしいものにカラ(ハル)を使っているのでしょうか?
サンスクリット語の“黒い”はカーラ(漢字表記で哥羅か迦羅。シバ神をさす毒蛇。シバの妻はカーリー)。しかし、“ラ”は“R”でなく“L”です(kala。はじめのaに長音記号を載せる。中島巌『基本梵英和辞典』に“kalah”とある)。大黒天はマハーカーラ。参考、松崎光久訳注『耶律楚材文集』など。
グラーム……アラビア語で奴隷です。もと少年・小姓など。このグラームはアッバース朝から、おなじ意味のマムルークはエジプトのアイユーブ朝ころから使われたようで、黒人奴隷のアブドと分けて用いられているようです。
大理……大理は『宋史』488外国4に、占城などは『宋史』489外国5に記載。比定は事典などから引きました。
流求……『隋書』81東夷/流求国・『宋史』491外国7流求国・『元史』210外夷3瑠求での記述は何となく台湾。『明史』323外国4琉球は、まちがいなく沖縄でしょう(「……中山王察度、遣弟泰期等、随〔楊〕載入朝。……」とありますので)。
日本……「〔大安七(1091)年九月〕己亥(十四日)、日本国遣鄭元・鄭心及僧応範等二十八人、来貢」、また翌年「〔大安八年九月〕丁未(二十七日)、日本国、遣使、来貢」と『遼史』25にあります。日本の原典史料の藤原宗忠『中右記』に関係記事があるらしい――堀河天皇の寛治六年(1092年の九月十三日)。僧は、応範でなく明範とあるとか。穆宗皇帝の名(耶律明記)を避けたのでしょう。しかし、この記事は私の見た≪史料大成≫所収の『中右記』に載っていません。しかたなく『中右記』に載っているということを中央公論社『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』359頁と島田正郎『契丹国』158頁から引用しました。
やはり堀河天皇の、寛治八年(1094年。十二月十五日に嘉保元年と改元。大安十年)二月二十五日、日本の太宰権帥藤原伊房について「坐事降位停職。貶一級為従二位。停中納言」とありました(『公卿補任』《新訂増補 国史大系》)。さらに「三月六日、諸卿定申、前〔太宰権〕帥〔藤原〕伊房卿、遣明範法師於契丹、交易貨物之罪科」とあります。(『百錬抄』5堀河天皇嘉保元年《新訂増補 国史大系》)。
つまり、これは藤原伊房による私貿易だったのでしょうか?
茶……遼代のお茶は抹茶であろうと推測しました。使用した原典史料は陸羽『茶経』・蔡襄『茶録』で、参考は孔令敬『中国茶・五感の世界 その歴史と文化』です。
タタール……タタル(現代トルコ語。ただしトルコ語は文字の上で長音の表記をしたり、しなかったりします)・タタール(突厥碑文。しかし原文全文を見ていません)・タータール(ペルシア語など)などありますけれど、かれら(と同時代のほかの勢力)は何と発音していたのでしょうか?
ちなみにヨーロッパの言語においての表現は、むかしタルタール、いまタタール。タタールの兵がモンゴル帝国軍に加わっていたからでしょう。しかし、なぜモンゴルでなくタタールなのでしょうか? 多かったのかな? タルタールはギリシア語のタルタロス(冥界)にひっかけたらしい。タルタルソースとの関係はわかりません。
また、この、モンゴルより前のタタールと、明代の韃靼・ロシア史におけるタタール人(タターリン)・現代中国にかかわるタタール族(塔塔爾族)とのつながりは、あまりないようです。
はじめ漢人はタタールを室韋・阻卜にふくめていました。
室韋は『魏書』100に失韋とあるほか、だいたい室韋。ただし南室韋・北室韋・鉢室韋・深末怛室韋・大室韋……などと表記されています。
阻卜は『遼史』に出てきます(『金史』に阻僕[僕を革偏にする]とあるとか)。
韃靼は『新唐書』218沙陀に達靼とあります。これが初見でしょう。『遼史』14に達旦国九部、『契丹国志』22に達打国、『聖武親征録』『元史』1などに塔塔児とあるほか、ほぼ韃靼。また、突厥碑文に“三十姓のタタール”(闕特勒の碑)、“九姓タタール”(ヒツ[くさかんむり・必]伽可汗の碑)とあらわれているそうです(『白鳥庫吉全集』4室韋考)。
室韋は、はじめ大興安嶺山脈の東、嫩江【どんこう】流域に住んでいました。嫩江は内蒙古自治区と黒龍江省の境を通り(逆に嫩江が境なのでしょう)、松花江に合流し、松花江は黒龍江(アムール河)に入ります。
のち、大興安嶺山脈の西、シルカ河・アルグン河・ヘルレン河・セレンゲ河の流域、そして陰山山脈の付近に居る者も、室韋とよばれるようになりました。ヘルレン河はモンゴルからアルグン河へ流れ、アルグン河は中国・ロシア国境を通ってシルカ河と合い黒龍江に入ります。先にあったようにセレンゲ河はオルホン河をあわせてバイカル湖へ。陰山山脈は、黄河の内蒙古自治区を流れるところの左岸(北側)にあります。
たぶん、シルカ河・アルグン河・ヘルレン河の室韋のなかに韃靼(三十姓タタール?)がふくまれ(モンゴルも?)、セレンゲ河の室韋は達旦国九部つまり九姓タタールであり(きっと『遼史』の阻卜)、そして、陰山山脈に存するものは、そのまま謨葛失の陰山室韋で、もしかしたら、そのなかに白達達が数えられていたのでしょう。その陰山室韋と白達達との関係は不明です(おなじものだったらどうしょう!?)。
ところで『蒙韃備録』立国に「韃靼、始めて起きた地処は、起丹(契丹?)之西北である。その族は沙陀の別種から出ており、ゆえに歴代において聞くことはなかった。その種に三つある。曰く黒。曰く白。曰く生。いわゆる白韃靼は、顔貎やや細く、人となり恭謹にして孝。父母の喪に遇えば、すなわちその面をきり哭する……いま、成吉思皇帝および将相大臣みな黒韃靼である」とありました。ここで白韃靼がオングートかどうかわかりませんけれど、黒韃靼はモンゴルということでしょう。『大金国志』22東海郡侯/上に「韃靼……その漢地に近い者を熟韃靼と謂い……、その遠い者を生韃靼と謂う」とあります。また、白韃靼のおこないは“送血涙”ですね。『新元史』116阿剌兀思剔吉忽里に「汪古部すなわち白達達十五部の一。もと布而古特であり、また貝而忽特という。遼人が称えるに烏而古となす」とありました。『新元史』は原典史料として扱えませんけれど、そのもとになったものがあったのでしょう。ただ『遼史』に烏而古はなく、烏古部(『遼史』46百官志2諸部)があります。
さて、『アジア歴史事典』韃靼に「9世紀の中ごろ、ウイグルはキルギスに滅ぼされたが、9姓タタールはこのキルギスを圧迫して、ついにオルホン川流域を占領し、ここに蒙古人による蒙古制覇の第一歩をひらいた」とありました。このタタールがキルギスを圧迫したという原典資料はわかりません。
ちなみに、モンゴルは『旧唐書』199下/北狄/室韋に蒙兀室韋、『新唐書』219/北狄/室韋に蒙瓦部。『契丹国志』22に蒙古里国、『遼史』24に萌古国、『大金国志』6に萌骨子・9や23に盲骨子・10に蒙兀・12に朦骨(ほか、だいたい大朝・大国)とあるらしく(四庫全書なので改変されています。しかし注釈がついていますので)、『元史』1に蒙古部となっていますけれど、『金史』『宋史』は“大元”としています。
ワリーユルアハド……正しくはワリーユ=ル=アハディ。本文を書いたとき、ちゃんと読めていませんでした。アラビア語で皇太子らしい。どれかの辞書の中で“セルジューク朝の皇太子”と書いてあったような……忘れちゃった。すみません。ワリーは保護者・守護者で、アハドゥは時代・治世(ほか約束など)です。つまり“時を守る者”か?(『パスポート初級アラビア語辞典』に“時代を継ぐ者”とあります)
拝舞……『皇天順ならず』第1話で耶律淳(秦晋国王)即位のさい、拝舞を“右手をふり挙げ、左足を前へ踏みだし、右足から跪いて、左足を引いて跪き、両手と額を地に至らせた”と表現しています。これは映画『天下第一』(1983年、台湾)から採用しました(今ごろ書くかい!。資料として使ったのなら、すぐに申告するべし。……申し訳ありませんでした)。この拝舞について、私は、よくわかっていません。漢文史料を読みこなしていないせいです。2001年NHK大河ドラマ『北条時宗』で、クビライに向かっての拝舞は、両手を挙げて横に振る、というものでした。あれは、どのような史料によるものなのでしょうか。やはり私の不勉強で発見できません。ただ、日本史においての拝舞【はいむ】は「叙位・任官や賜禄の際に謝意を表す方法。再拝と舞踏をいう。唐礼にならい平安初期に採用。まず二拝して笏【しゃく】をおき、立って左・右・左、座って左・右・左と袖を振り、一拝の後、立って二拝した」(『ワイド版角川新版 日本史辞典』1997年)だそうです。日本史の史料でなく辞典から引きましたけれど“唐礼にならい……”ということなので、いずれ漢文史料まで遡って精査したいと思います(今まで何をしていた!と言われますね。どうも、すみません)。
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