皇天順ならず(高汝蓮)第5話

折上巾・紫袍の二人が宮殿の廊下に居た。
「張礼部は平州(河北盧龍)に帰るのですね?」
「はい。節度副使を拝しました。しかし……リンヤが燕京に去ってから、平州の民は騒擾としていますので」
「そのようなことは……ないと思います。それに、すぐディリ都統が節度使として制するでしょう」
「……」
「何か?」
「……実を言うと、もともと天錫皇帝の即位に難があったと我は思っております。太尉李処温は、己の権位を固める為に擁立を持ち出したのであり、賛同した司徒左企丘や参政虞仲文は天錫皇帝に忠節を尽くしたのみです。太師張琳は不可としました。キタンであるリンヤは何故、擁立に和したのですか?」
「……」
「まだ、あります。知ってのとおり、燕京の軍は名を有れど、その実ありません。燕京にあったピシ軍・侍衛軍・統軍などは、すでに解体しています。今、蕭幹の率いる四軍および郭薬師らの率いる常勝軍や牛欄軍(牛欄は地名。河北順義東北)・痩軍・郷兵そしてリンヤの西南路軍しかありません。総じて僅か三万余。それに天錫皇帝が授かっていた都元帥に替わり、それらの兵を統べるのは誰なのでしょう。北院枢密使の蕭幹ですか。しかし、彼は宗室や外戚でありません。また、もはや旧制のように軍国の大計を漢人に与らせないということはないので、太尉の李処温でしょうか、それか、内外諸軍事の虞仲文ですか?」
「……」
そこへ甲冑を装ったクリブが来た。張礼部は拱手し辞す。クリブがタイシに言う。
「張覚が何か言ってきたのか?」
「いいえ」
童子が言う。
「近ごろ主上は鬱鬱として愉【たの】しんでいません。どうしてでしょうか」
オリラが話す。
「うん。たぶん、それは、宋軍を退けたものの、敗盟したのだから再び来るはずだし、ジュルチェンも、そろそろ動くであろうから、ということかな」
「盟とは、どのようなものであったのですか?」
童子とオリラがタイシを見る。タイシが語った。
「統和二十二年閏九月八日、我らの聖宗皇帝は南伐する。皇太后(睿智皇后蕭綽)も親ら戎車を御し、三軍を指麾した。十二月九日、宋の真宗皇帝は使を遣わして、書を齎し聘(訪問)を報じる。宋は、毎歳、絹二十万疋・銀十万両を贈り、両朝は、おのおの辺界の両地・人戸を守り交侵することを得ない、と誓書に約した。ほかに聖宗を弟、皇太后を叔母、真宗を兄と為すことにしている。これが盟だ」
「……」
「……しかし、主上にとっての何よりの懸念は湘陰王のことであろう。いまだ、その動きが掴めない。また、燕京において漢人が多く、蕃人は少ない。争いが起きそうだ」
「タブエン!」
殿中から侍女らしき者の声がかかった。童子は、すぐタイシらに鞠躬して去った。タイシが言う。
「よく人の話を聞きたがる者だな。しかし、長ずるの及んで、良きキタンの将士と為るであろう」
「将士?」
「どうした?」
「あれは女児ですよ」
「は?!」
「主上が不予!?」
穹廬の外。兵が跪いている。タイシはその前に屈みこんだ。
「城南の瑶池殿で臥しています」
「何かあったのか?」
「湘陰王が夾山から檄を伝えてきました」
「遂に来たか!」
「主上は、それを聞き憂懼して、疾を成したようです。そこで李太尉が奚・キタンの諸貴人をして、宿を出て侍すようにと」
タイシは身を興し、天を仰ぎ、すぐさま兵を見て頷く。その兵は下がる。タイシは馬の在るほうに向かった。
瑶池殿に大臣らが召されている。天錫皇帝の牀が殿の奥に有り、簾が下ろされていた。徳妃および侍女らが侍している。あの童子いや女児もいた。タイシは牀に近づき、右足を跪け、両手を右肩に着ける。皇帝は眠っているらしい。
タイシは緩やかに立ち、ふり向いて静かに言う。
「檄は?」
クリブが答える。
「うむ。天徳(内蒙古烏拉特中後聯合旗北西)・雲内(山西包頭東薩拉斉)・朔(山西朔)・武(張家口)・応(山西山陰)・蔚(河北蔚)などの州に至っているらしい。諸蕃精兵五万騎を会合し、秋八月を約して燕に入る、とある。併せて近侍小底(吏)のジャラなるものを遣わして労を問い、衣裘・茗薬を索【もと】めた」
李処温が謂う。
「北南大臣と会議したところ、秦〔王〕を迎えて湘〔陰王〕を拒むことにした。これから百官を集めて共議する」
瑶池殿に百官が並ぶ。さらに殿外に溢れている。簾は捲かれ、天錫皇帝が牀に上体を興していた。それを徳妃らが支えている。
李処温が言う。
「秦を迎えて湘を拒む。吾の議に従う者が有れば、東に立て」
独り西にところした。李処温が問う。
「南面諸営都部署、何故?」
答える。
「湘陰王が、ほんとうに諸蕃兵を以て大挙し、燕を奪えるなら、すなわち、これは天数の未だ尽きていないということです。どうして、これを拒むのですか。否、ならば秦・湘は父子。拒むのなら皆拒むべきで、古くから、どこに子を迎え、父を拒む者が有るでしょうか」
李処温らは相顧みて微笑した。
「軍心を扇乱しようとする者です。誅すべきでしょう」
天錫皇帝が枕を撫でながら言った。
「彼は忠臣である。なぜ殺さなければならないのだ? 湘陰が果たして来れば、吾に死が有るのみ。また何の面目で相見えようか!」
皆、鞠躬。都部署は再拝して下がった。
夜、人が趨る。クリブらに告げた。
「主上の病が極まり、危篤です!」
彼らは急ぎ赴く。殿内に入り、クリブが辺りを見て尋ねる。
「李処温は?」
近侍が答える。
「疾と称して私第に帰りました」
「何?」
クリブが言う。
「こんなときに。何を考えているのだ!?」
徳妃がのべる。
「声が大きい。……しかし、主上は自ら起きられなくなるのを知り、密かに処温に蕃漢馬歩軍都元帥を授けています。意は後事を属しよう(まかせよう)というのでしょう。それなのに……」
虞仲文が話す。
「何ということだ、我らに知らされていない」
クリブが語る。
「主上は何故、李処温を恃【たの】むのか?」
左企丘が告げた。
「昔、主上が燕に入ったとき、李処温に功が有ったのだ」
そこへ鎧甲の音が鳴り、兵が馳せつける。
「李太尉の子らが陰に軍二千を集めています」
クリブは、また大声を出すところで口を押さえ、徳妃・左企丘・虞仲文を見る。徳妃らは頷いた。クリブはタイシに顔を向け、言う。
「先に騎……三千を集め、……毬場に陳【つら】ねておいてくれないか」
タイシは鞠躬して、外に出た。
再びタイシは瑶池殿に入る。大臣・百官・将兵・近侍・侍女・徳妃らが皆、哭していた。立ちつくすタイシに虞仲文が語る。
「先ほど主上は崩御した」
タイシは牀の前に赴き俯伏し、涕涙した。
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