皇天順ならず(高汝蓮)第4話

「ジクリ(万歳)!」
 歓呼が響く中、遼軍が燕京に至った。城外で天錫皇帝と徳妃・官僚が迎える。諸将は馬を下りて再拝した。彼らは一人ずつ名を呼ばれ、皇帝・妃の前に趨った。
「翰林学士承旨・正奉大夫・遼興軍節度使兼西南路都統・王子班郎君、エリ=タイシ」
 タイシも御前に至り右足を跪ける。天錫皇帝はタイシの手を執り涕涙した。

 宴が行われた。酒は酣【たけなわ】となり、或るものは歌い、或るものは舞い、或るものは戯れに射たり角觝【かくてい】(すもう)をしたりして、おのおの、その意を極めている。
 童子がタイシらの坐っているところへ酒を持って来た。オリラが問う。
「キタンと大遼国のことを知っているか?」
 童子は胸を張って答える。
「はい」
「話してみろ」
「相伝。神人有り。白馬に乗ってマウ山からエリ河に浮かび東へ。天女有り。青牛車に駕して平地松林からネウラコ河に泛【うか】び下ってムエ山に至る。二水合流、相遇って配偶と為り八子を生んだ。その後、族属は漸く盛んになり、分かれて八部を為した。行軍および春秋時の祭で必ず白馬青牛を用いるのは、本を忘れないよう示している、と云う」
「『始祖キショウ=カガン事迹』だな。誰に教えてもらった?」
「ノウオマ(国母)です」
「徳妃に仕えているのか?」
「はい」
「もっと聴きたい」
「詳しい所までは……」
「よし。教えてやろう。タイシ、どうぞ」
「何だ、それは? まあ、よい。……こういうのもあるぞ。炎帝の裔にコウトと曰く者が、世に朔陲【さくすい】(北境)の雄であった。のち冒頓の襲う所と為り、鮮卑山を保って居し、鮮卑氏と号した。すでにして慕容の燕が、これを破り、その部を析【さ】いて宇文といい、奚といい、キタンといった。隋・唐の際、キタンの君はダイガ氏と号する。唐はダイガ氏を刺史に任じ、都督と為し、郡王に封じ、また彼らに李姓を賜い、公主を嫁したという。しかしダイガ氏の“李尽忠”は兵を挙げ、自らを“無上”カガンと号した。〔則天〕武后は将を遣わし、その衆を撃潰したので、ダイガ氏はおとろえてしまった。後、エウレン氏のワ=カガンが立つ。デラ部の長であるネリはエウレン氏のディレンズリを立ててズウ=カガンと為した。これによってエウレン氏からクラ=カガン・ス=カガン・センチ=カガン・チェウグ=カガン・エラン=カガン・バラ=カガン・コンドギン=カガンが立った」
 宴はつづき、歌吹の声は四望に相接している。
「ネリは始めて制度を立て、官属を置き、木を刻んで契と為し、地に穴ほって牢と為した。しかしズウ=カガンに譲り、自立をうけあわなかった。ネリはピデを生み、ピデはカイリンを生んだ。カイリンはノウリスを生む。ノウリスは大度で寡欲、厳しくせずに人を化した。これが大遼の粛祖である。粛祖はサラドを生む。サラドはかつて黄室韋(民族名)に戦いを挑んだとき、矢が〔鎧甲の?〕数札を貫いた。これが懿祖である。懿祖はキュンドシを生んだ。キュンドシは始めて民に稼穡を教え、畜牧を善くしたので、国は殷富(とみさかえること)となった。これが玄祖である。玄祖はサラディを生む。サラディは民をいつくしみ、物を愛し、始めて鉄冶を置き、民に鼓鋳を教えた。これが徳祖だ。即ち太祖の父である」
 オリラが童子に囁く。
「いよいよ太祖皇帝だ」
「はい!」
「太祖大聖大明神烈天皇帝の姓はエリ(耶律)氏、諱は億、字はアボキ(阿保機)、小字はチュエリジ(啜里只)である。キタン(契丹)デラ(迭剌)部キャライ=シレ(霞瀬益石烈)エリ=ミリ(耶律弥里)の人。徳祖皇帝の長子である。唐の咸通十三(872)年生まれ。初め母は日の懐中に堕ちるのを夢みて娠を有したという。生むに及び室は神光・異香を有し、体は三歳児の如く、即よく匍匐した。祖母は異として鞠【やしな】い己の子と為し、常に別幕に匿して、その面を塗り他人に見えさせなかった。長じて身長九尺(宋尺276.48センチ?唐の小尺で217.8センチ)、目光で人を射、弓三百斤(179.04キログラム)を関【わん】した(ゆみをひいた)という。唐の天復元年、歳辛酉(901年)、コンドギン=カガンは太祖を以てイリギン(統軍馬大官)と為し、征討を専らにさせる。唐の天祐三年、歳丙寅(906年)十二月(907年に?)、コンドギン=カガンが崩じた。群臣は遺命を奉じて太祖を立てることを請う。太祖は三譲し、やむを得ずして、これに従った。翌年、歳丁卯(907年)、正月庚寅(13日)、有司に命じて壇を設け、柴を燔【や】き天に告げて、皇帝位に即く。母を尊んで皇太后と為し、妻を皇后に立てる。群臣は尊号を上って天皇帝といい、后を地皇后といった。歳丙子(916年)二月丙申(11日)に神冊と建元。太祖は東征・西討して、枯れたるを折り、朽ちたるを拉【くじ】き、東の海から西の流沙に至り、北の大漠を絶【わた】り、威を万里に信【の】べた」
 タイシは少し息をついた。
「太祖淳欽皇后シュリ氏の諱は平、小字はユエリドである。后は簡重・果断で雄略を有しており、決めることに勇で権変を多くし、太祖が兵を行かせ衆を御すれば、后は常にその謀に預った。大遼は鞍馬を以て家と為している。そのため后妃は往往にして射御に長じ、軍旅田猟に未だ嘗て従わないことなかった。……太宗孝武恵文皇帝の諱は徳光、字は徳謹、小字はエウグという。太祖の第二子。母は淳欽皇后である。唐の天復二(902)年生まれ。そのとき神光異常、猟者が白鹿・白鷹を得たので、人は以って瑞と為したという。長ずるに及び、貎は厳重にして性は寛仁であった。太宗は典章を備え、庶政を釐【おさ】めるに至り、名実を閲【けみ】し(しらべ)、囚徒を録し、耕織を教え、鰥寡を配した。晋国を親征し、その都の開封において、歳丁未(947年)二月丁巳朔(一日)に国号を“大遼”と建てた」
「まだまだ、先は長いぞ」
「……はあ」

 殿上の榻に天錫皇帝が坐っている。百官は殿下の磚道【せんどう】(石畳)に東西に相向かって並んでいた。
 天錫皇帝が言う。
「真の敵はジュルチェンである」
 李処温も告げる。
「去る五月二十一日、ジュルチェンの使者が来ました」
 クリブが問う。
「何を告げてきた?」
「書を以て、降ることを諭してきました。斬りますか?」
「いいや」
 虞参政が尋ねた。
「ジュルチェンは南朝のように退けられないであろうか?」
 クリブが話す。
「それは難しい。その強さを、我も、張太師も、そして主上も、戦ったことのある者は、よく知っている」
 天錫皇帝が聞く。
「北院枢密使。卿はジュルチェンに偽り降り、その軍容を具に探った。ジュルチェンについて、朕も知らないであろうことを詳しく述べて欲しい」
 クリブは皇帝に向かい拱手・鞠躬して語った。
「……その用兵は戈を以て、前行を為す。人は号して硬軍といっていた。人馬は皆、全甲。弓矢は五十歩でなければ射ない。弓力は七斗を過ぎず。箭鏃は六七寸に至り、形は鑿【さく】(のみ)の如く、入れば、たやすく出せない。人の携えるのは百に満たなかった。隊伍の法としては什・伍・百の皆に長を有している。伍長は柝【たく】(拍子木)を撃ち、什長は旗を執り、百長は鼓を挟み、千長は旗幟・金鼓を悉く備えていた。伍長が戦死すれば四人皆斬られ、什長が戦死すれば伍長皆斬られ、百長が戦死すれば什長皆斬られる。闘戦の尸を負いて以って帰る者は、その家貲【かし】(財産)の半ばを得るという。凡そ将たる者は皆旗を執り、人は其の向かう所を視て趨る。主帥から歩卒に至るまで皆みずから控馭【こうぎょ】して(馬を自由に扱って)従者なし。国に大事が有れば、野に適【ゆ】き、環になって坐り、灰に画して議す。卑しき者から始め、議おわれば即これを漫滅する。人は声を聞かず。その密はかくの如し。まさに軍を行かせようとするときは大会して飲む。人をして策を献じさせ、主帥が聴いて択ぶ。その合う者は即、特将と為り、そのことを任じられる。師が還れば、また大会し、功の高下あるのを問う。これを賞するのに金帛を以てし、若干挙げて以って衆に示す。或いは以って薄く為し、またこれを増やす。初めてこれを起こした時、皆騎兵を率いていた。旗幟の外に、それぞれ字を有している。小・大の牌子に記し、馬上に繋いで号と為していた。五十人ごとに分かれて一隊を為し、前の二十人は重甲で全装して棍槍を持つ。後の三十人は軽甲で弓矢を操った。敵に遇うごとに必ず一・二人の馬を躍らせるものが有って、先に出て陣の虚実を観る。或いは其の左右前後に向かい、隊を結んで馳せ、これを撃つ。百歩の内に弓矢は斉発される。中る者は常に多い。勝てば隊を整え緩やかに追う。その分合・出入・応変は神人の如く、戦えば必ず勝つ」
 皆一言すら発せず黙ったままであった。

「ほかには?」
 宮殿の外で童子が言う。オリラが喋る。
「どうして?」
「兵のことばかり」
「あたりまえだ。いま百官は宮殿において常に軍国事を議【はか】っている。それに、ふつう知らされないのだぞ。せっかく教えてやったのに」
「彼らの服は、食べ物は、顔は?」
「リンヤが詳しいぞ。祥州(吉林長春東北)や泰州(黒龍江肇源?)の節度使を歴したから。リンヤ、よくジュルチェン人が遇いにきたでしょう?」
「そうであったかな。あまり思い出したくない。祥州を数月で、泰州を一年余で退いた。ジュルチェンに陥れられたからな」
「我が代わりに話しましょう。……糜【び】(かゆ)で酒を醸し、豆で醤をつくる。米を飯にして、葱・韮の属を和えて食べていた。モウ[くさかんむり・毛](やさい)はブイ[蕪と、くさかんむり・夷](やまにれ)。食器に瓠陶【ことう】(?)なく、匕【ひ】(さじ)・チョ[竹・助](はし)なし。すべて木で盆をつくっていた。春夏の間、鮮粥(?)を用いるのを止める。粥に肉味を下す。品は多くない。魚やショウ[けものへん・章](のろ・くじか。鹿より小さく角なし)を生食し、ときおり焼肉を用いた。冬においてやはり冷飲を却ける。木の楪【ちょう】(底の平らな浅い皿)に飯を盛り、木のワン[皿・苑のつくり](こばち)に羹を盛っていた。飯に肉味を下す。コウ[月・ク・又](肥えたもの)を炙り、脯【ほ】(ほしにく)を烹していた。余肉で羹と和える……」
「……こんどは食べ物のことばかり」


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