皇天順ならず(高汝蓮)第37話

深い谷は、貌[+しんにょう]【ばく】として底なく、
崇い山は、鬱として嵯峨(けわしい)。
臂【ひ】(ひじ)を奮って、喬木を攀【よ】じのぼり、
迹【あと】を振って(足を挙げて)、流砂を渉る。
………
朝、食べるのに冑をぬがず、
夕、息【いこ】うのに常に戈を負う。(陸機「従軍行」から)
沙塵は馬の汗を撲ち、
霧露は貂裘に凝りかたまる。(岑参「初過隴山途中呈宇文判官」から)
詰曲【きっきょく】(まがりくねった道)を登陟【とうちょく】(のぼる)した。
両傍は峻崖、僅かに車軌を容れるのみ。
谷の中、時に牛・馬・駝を畜牧しているようだ。青羊・黄豕も多い。
俄に開けた地。沃野だ。水・草・花が豊かで美しい。
皆、馬を下りた。
「漸く抜けた。一時、どうなるかと思ったぞ」
フティンは環【めぐ】り視る。
「ほんとうに、ここでいいのか?」
「はい、……たぶん」
テゴはフティンの馬の牽控(手綱)を執り、子らにわたす。
「たぶん? たよりにならないなあ。で、どこに在るのだ?」
「う〜ん」
「あ!?」
スンシャンの声。皆、顧みる。
女、在り。
淑やかに屈んでいる。
「踏青(草摘み)に去り、芙蓉(蓮)で裙のすそを作る(飾る)……だな(李商隠「無題」)。あの女に尋ねよう」
フティンが女に近づこうとする。
女が首を矯【あ】げた。
雲鬢【うんびん】(美しい髪)・花顔(美しい顔)・金歩揺【きんほよう】(かんざし)。(白居易「長恨歌」)
「誰だ?」
オリラはフティンを止めた。
スンシャンが前に出る。
「あんな女、リンヤの営に居たかなあ」
「容色美麗か?」
フティンが眺めた。
「……婉艶とまでいかないでしょうけれど」
テゴが手を額にかざす。
フティンが言う。
「重徳……リンヤの妻妾にどうだ?」
「はあ? 何故?」
「いや、妻を失って気を喪っているようなので」
「そんなことはないでしょう。それに、あれが何処の誰だか判っていないのに」
タイシが口を開く。
「タブエン」
「えー!?」
オリラ・テゴ・スンシャンらがのけぞった。
タイシが前に出る。
女は、驚いたように目を大きく開く。
男は、にこやかに眼をほそめる。
女は眉を斂【おさ】め(ひそめ)た。
男は歩を速める。
「叛徒(裏切り者)!!」
女は身を起こした。手に弓箭。花が飛散する。弓を引き、箭(矢)を射た。目の醒めるような速さで。
箭は男を僅かに掠める。
すぐに次を射た。
また掠める。
間断なく箭が飛ぶ。
箭はオリラらの所に達した。彼らは弓箭を持つことすら及ばない。慌てて避ける。それをジャラーブが徒手(素手)で叩き落とす。
男が女の前に到った。
女は彼を仰ぎみる。弓箭を地に落とし、やがて膝をつき、倒れこむ。
男は屈み、その女の身を支える。
女は泣かなかった。
男は微笑む。
女は恥ずかしそうに少し顔をそむけた。
「タブエン、営にあんないしてくれ」
「はい」
タイシはタブエンを起こし、ふたたび屈んで弓箭を拾う。
テゴらは茫然とし、ジャラーブは鉄槊を持ちあげていた。
オリラとフティンは顔を見あわせ、頷いて笑う。
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