皇天順ならず(高汝蓮)第35話

 キタン人は沙子に深く入った。
 沙子はすべて不毛の地。皆、平沙(砂漠)で広漠としている(広く果てしない)。風が起こり、塵を揚げ、色を弁【わきま】えられなくなるよう至らせた。また、平地の頂は高さ数丈刻む。絶えて水泉はない。人は多く渇いて死ぬ。

「と、ジュルチェンは思っていることであろう」
 フティンは笑う。
 砂上、皆、環になって坐っている。
「窮追もなかった」
「何をしていたのであろうか?」
「彼らは朝まで酒を飲んでいたのだ」
「?」
「アクタが癒えたということでな」
「!? アクタは恢復したのか?」
「いや、これも流言だ。このときユリエン公主は酒をふるまった。キタン人の女も皆公主を倣【なら】ったんだ」
「……」
「しかし、キタン人を疎んじている者もいたのであろう?」
「それがな、ネモホは天祚の妃嬪のひとりを次室に納めている。そしてグシェンも」
「グシェン!?」
「キタン人を嫌っていたのであろう?」
「うん。しかし、ティイの妻を、やはり次室に納めた」
「ティイの妻? クトゥテマンか?」
「ああ。もちろん憐れんでのことであろう。天祚が天徳に奔ったとき、ティイは身を挺して赴いた。けれど、妻は子を携えて道路で流離していたのだ」
「あのグシェンが? ……ネモホもオリブも、ジュルチェンの将帥はキタンの女を欲していたのか!」
 皆苦笑いした。
「とにかくジュルチェン兵のほとんどが酔いつぶれていたので、去ることを決めていたキタン人は騒ぎを待たずに営を出た。我が殿(しんがり)だ」
 フティンは話を止め、酒を飲んだ。
「日も高くなって、突然ネモホの号令によって、重甲を装い、棍槍を持ったジュルチェン兵が、鉄の鎖で連ねられた馬を大いに躍らせた。しかし、忽ち崩れ、或るものは馬から墜ち、或るものは引きずられ、傷を負うに至る。また、拒馬(柵)を倒し、車を翻【ひるがえ】させ、穹廬を壊した。ジュルチェンは拐子馬を貫く韋索を鉄鎖に換えていたらしい。しかし、その鉄鎖は拒馬や車・穹廬まで繋がっていたのだ。「誰がやった? 鎖はかなり重いぞ」
 オリラらがジャラーブを顧みた。ジャラーブは顔色を変えない。
「おかげでジュルチェン兵は大混乱だ。火は起こるわ、馬は暴れるわで、な。何かをしかけていたのか?」
 皆がテゴを見る。テゴは嬉嬉としていた。
「そこをボデ・トゥシャン・ノウリ・ガウバ・ラウらキタンの将帥らが兵を率いて収め、密かに我らを営から出した」
「そのノウリらは、ここに来ないのですね?」
「うむ、そうなのだ。サバル」
「ノウリもラウも横帳(アボキの子孫)の族であるというのに……」
「ボデなんかは天祚の厩馬を窃【ぬす】み取ってジュルチェンに降ったのであるから、わかる」
「それにわかいしな。シェンスやデュエも、燕京のイシンやネイラも天祚を恨んでいるから、このままジュルチェンに服したままであろう」
「クレル=シアンイン、どうしてそれを?」
 いままで黙っていたタイシが問う。
「すでに話は、ここまで伝わっている」
「誰が伝えた?」
「ジュルチェンだ」
「クレル、まさか!?」
「いや、我にジュルチェンの禄を食むつもりはない。しかし、天祚に従うこともないであろう」
「……」
「ところでユドゥクはどうした?」
 クレルが問うた。
 フティンが答える。
「ウキマイを迎えるために出ていたようだ」
「じぶんひとり媚びるつもりか」
「愚かな」
 クレルが身をのりだす。
「ジュルチェンは、これから追及の兵を出すでしょうか?」
 フティンが言う。
「わからん。しかし、ネモホやグシェンは失態を演じたわけだし、ノウリらは混乱を収めた。営を去ったキタン人は全体から見れば僅かだ。なによりアクタが止めさせるであろう。あとをウキマイに任せるために」
 フティンは、さらに酒を飲む。
「リンヤ、これからどうする?」
「ジュルチェンは、“七つの湖”に我らが至ったことを知らないはず。ここからであれば上京や中京を狙えます」
「むりだ。兵が足りません」
 サバルが告げた。
 タイシは語る。
「今、アクタもウキマイも渾河あたりにいる。つまり主力は上京にいない」
「ジュルチェン兵は強い。勝てませんよ」
 サバルは動揺しているようす。

「リンヤ」
 オリラが呼ぶ。
「うむ。入れ」
「もうひとりいます。よろしいでしょうか?」
「? ああ」
 タイシが筆を置き、顔を上げた。
 穹廬の中にオリラが入る。
 ひとりの男も共に入った。深い目、高い鼻、多い鬚髯【しゅぜん】(ほおひげ・あごひげ)。頭を布で巻き、長衣を著している。
「うん?」
「以前、話をしていたウイグルの商人です」
「ほう?」
「セミスケント(サマルカンド)のハサンです」
 ハサンは鞠躬した。
「セミスケント?」
「大いなる都です」
「? う〜ん」
「知りませんか?」
「うむ。あとで詳しく聞きたいな。まあ、座れ。……それで?」
 オリラがハサンを先に坐らせる。
「彼から話があるそうです」
「……話してくれ」
「近ごろジュルチェンの営に至りました。しかし、すでに都統は出たとのことで、すぐに、あとを追ってきたところです。……大聖武元皇帝が崩じました」
「!」
「アクタが死んだ!」
 オリラが驚いたらしく、大声を出した。
「さよう。ブドゥ泊西の行宮において、八月二十八日のことでした。それより前の十五日、アンバン=ボギレは宗室・百官を率いて上謁しています」
「そうか。齢はどれくらいであったかな?」
「たしか五十六」
 タイシは目を閉じ、黙った。
「それと……」
 ハサンが声をかけた。
 タイシは目を閉じたまま、肯く。
「都統の妻はネモホに殺されました」
「え?」
 オリラが再び驚きの声。
 タイシは目を開けた。
「ネモホは、日が高くなって都統が来ないことを怪しみ、使いをだして召そうとしました。妻は“昨夕、大人に忤【さから】ったことから、罪を畏れ竄【のが】れましたよ”と言います。ネモホはその之【い】(行)った所を詢【と】うたところ、告げない。ネモホは大いに怒り、部落の最も賤しき者に配するとしました。妻はこれに屈強に肯んぜず、口を極めて、みくだし罵ったというのです。ネモホは遂に、これを射殺しました」
「まるで見ていたかのようだな」
 オリラが疑わしそうにハサンを見る。
「はい。我はここに来る前に、そこを尋ねました。そのとき周りの者から聞いたのです」
 タイシは、おもむろに起き、穹廬から出た。二人も外に出る。
 タイシは日に向かって拱手した。


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