皇天順ならず(高汝蓮)第32話

塵起こり天に漲り、兵走り地に満ちる。
将らしい者らが、遇えば互いに何かを叫んでいた。
それらを見ていた男が穹廬の戸を開ける。
女が衣を繕い、子らは矢を施していた。
久しくして後から声。
「仏僧なら、善いと思って」
タイシが顧みると、ウグナイが兵と僧を率い至る。
「僧?」
ウグナイの側に立つ僧が手を合わせ鞠躬した。タイシは拱手し、僧の顔を見て首を傾げる。
「龍雲寺から来ました」
「!?」
タイシは驚いたようだ。ウグナイが問う。
「知っている者か?」
「はい……」
「そうか。爾に見えたいというのでな」
僧が少し笑う。
「翰林学士承旨、安否は如何かな?」
兵らは互いに顔を見あわせた。ウグナイがしゃべる。
「漢語だな? 何て言ったんだ? ……まあ、いい。ちょっとぐらいならかまわん。なるべく早くきりあげてくれ」
ウグナイらは離れた。それを見てタイシが僧に告げる。
「李……いや、和尚、何故ここに?」
「ジュルチェンの郎君の一人に従って来た。しかし……ここはアクタの営であろう? リンヤこそどうして?」
僧は懐から書を出し、タイシに授ける。
「これは?」
「せっかく遇えたのに、いまリンヤに贈る物を持っていないのでな。この経典を」
「……」
「貧僧はリンヤらを恨んでいない。悪いのは処温なのだ。太后も処温に死を賜い、子を斬り、家を籍したけれど、落髪した我を海島の龍雲寺へ送るのみにした。おかげでジュルチェン兵や宋兵に煩わされなかったよ」
「それは和尚が欽恵公(李仲禧)・忠懿公(李儼)の子孫であるし、何ら罪を為したわけでないので」
「いやいや……。リンヤは去った後の燕京ことを聞いたか?」
「少し」
「貧僧もそこにいなかったので知らない。しかし近ごろ海島から平州を過ぎて燕京に還ってみた」
「平州!? 張礼部に遇いましたか?」
「ああ。奚王や郭薬師にすら面したぞ。ほんとうのことを言うと、もっと早くリンヤに見えたかった。張覚や奚王からの言を伝えられたのに」
「そうなんですか?」
「薬師などは宋主から礼遇され、甲第・姫妾・御珠袍などを以て甚だ厚く賜れ、南朝の貴戚・大臣から更互に宴を設けてもらったとか」
「……」
「そうそう、虞参政の書もある。その経典に挿んだ。もう遅いけれど」
「え!?」
タイシはその経典を開き、すぐ閉じた。
「これから貧僧は燕京へ行く」
「張礼部に会えますか?」
「会おうと思えば」
「いや、むりしないように」
「さすがにジュルチェン軍も僧を殺さない。それに貧僧も父祖以来大遼の臣だ。国姓すら賜った。何かあるのか?」
「彼が用いるかどうかわかりませんけれど」
タイシは僧にささやいた。
「それは……。そのようなことでジュルチェン兵を防げるのか?」
「時を稼げます。あと固く守って城を出ないこと」
「……そうか。わかった。伝えておこう。ほかにないか? ユドゥクやシェンスに何か?」
「やめておきましょう。……ユドゥクは危険です。なるべく会わないほうがいいでしょう」
僧は手を合わせる。
「ところで、何かあったのか? ずいぶんジュルチェン兵が慌てている」
「わかりません」
「誰も貧僧に教えてくれないのだ」
タイシが微笑する。それを見て僧は、やや驚いたようす。やがて頷いた。
僧が去る。ウグナイはタイシに問う。
「何を話していた? 何をもらった?」
タイシは経典を開く。ウグナイがそれをのぞいた。
「う〜ん。これは何だ? 何て書いてある?」
「『妙法蓮華経』です」
タイシが読んで聞かせる。ウグナイはわかったような、わからないような。
ウグナイらが引きあげた。数人の兵が残る。
久しくして穹廬の中から女が出てきた。
「どうした?」
タイシが顧みる。
「……いえ」
「中に入っていろ」
「……」
「何だ?」
「……丈夫【あなた】が、このまま何処かへ行ってしまうかのようで……」
「何故、そう思う?」
「……」
「入れ。兵が来る」
夫人は穹廬に入った。
その兵はタイシを監視している兵と何事か話し、タイシに近づく。兜と髭で顔はよくわからない。
「リンヤ」
兵は小声で告げた。
「……オリラ国舅!? こんどはジュルチェン兵か?」
タイシは周りを見、オリラに促して穹廬を少し離れる。
「何処から来たのだ?」
「渦中の人、ネモホの所から」
「よく来れたな!」
「ここも、ほかの営も大騒ぎなので、一兵卒の顔など確かめないのですよ。往来も激しく、兵が中途で変わったことすら判らない」
「従った兵は? 一人でなかろう?」
「迷わせました。あとで拾いますよ」
「そうか」
「それに流言も変わっていました。アクタが生きているのか死んでいるのか、次は誰なんだ、ウキマイは、ほんとうに号を称えられるのか、いやウキマイや郎君らも殺された、なんて言って混乱しています」
「やりすぎたかな」
「それが、かってに増えているのですよ」
オリラが笑う。すぐに口をふさぐ。
「それより、卿は何の使いなのだ?」
「ネモホがリンヤを招いています。どうします?」
タイシは顎に手をやる。
「行かなければならないであろう」
「……リンヤの考えた備えは万全です。ほかのキタン人――出たいと思う者らのみとなりますけれど――も待っていますよ」
「うむ。何とかネモホに感づかれないようにしなければ」
「……先ほど僧が来たそうで」
「ああ、李処能だ。処温の従弟の」
「!? 生きていたのですか! ……我らを探りに来たとか」
「いや、そんなことはなかろう」
「そうですかあ?」
「安心しろ」
「リンヤがそう言うのでしたら……さて、何時?」
「我がネモホの所を出た後」
「わかりました」
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