皇天順ならず(高汝蓮)第30話

穹廬の中。
酒食が供えられていた。
その前にタイシは坐っている。彼は食せず、目を閉じていた。
「たぶん、毒は入っていない」
タイシが目を開ける。フティンが戸のところに立っていた。手にくろい皮衣を持っている。
「どうやってここに?」
「爾が来るより先に、この営へ入っていれば難しくない」
フティンは坐り、菜(おかず)を手でつまみ食べた。
「先?」
「ああ、そうだ。……見たであろう? アクタは疾を発している」
タイシが頷く。
「そのためキタン人への戒めは厳しくなった。特にキタンの諸将相にな。そのうち数人……シェンス枢密やユドゥクなどは、すでに呼びだされた。……我もな。爾も必ずアクタに招かれる、そう我は思い、待っていたのだよ」
「待っていた?……何処で?」
「そんなことはいい」
フティンは一笑した。
「アクタは何と言っていた?」
「故地に還るようです。そして我に従うようにと」
「そうか……」
フティンは酒を杯に自ら注ぎ飲む。
「彼らは爾を懼れているのだよ、重徳」
「は?」
「わからないのか?」
「我の何を懼れているのでしょう?」
「重徳、爾は自らの功を誇らないからなあ」
「功?」
「爾は宋兵を三回にわたって撃破している」
「!? いや、あれは……宋軍が戦わずに退いたのです。それに奚王の四軍が主となり……」
「その奚王は、どうなった? すでに亡んだ。爾が奚軍の帷幄に入っていなかったからと皆は思っている」
「……」
「それになあ、どうして張覚は自立など考えたのだ?」
「張礼部?」
「爾が先に平州の守禦を繕いジュルチェンに備えていたからであろう?」
「そんな……」
「すべて爾の為したことだ」
「……」
「ジュルチェンは燕京を宋に与えた。宋は次ぎに西京を欲する。これを廻って後からジュルチェンと宋は争うはず。そのときジュルチェンは爾を必要とし、漢人は恐れる」
「……」
「さて、急がねばならないな」
「は?」
「ここを出よう」
「出る?」
「もう遅いと思うか?」
「……」
「もしかしたら我を疑っているのか? これは罠だと」
「いや……」
「我をユドゥクと比べるな! 我は俘虜となってから待っていたのだ、出るための人と時を! 今、爾が在り、アクタは病んでいる。好機だ」
「好機?」
「うん。彼らは混乱している」
「……」
「どうした? 爾もジュルチェンの虚実を十分知ったはず」
「……」
「迷っているのか? アクタが爾を厚く遇しているからか? オルに恩を感じているのか? 妻をもらって楽しく過ごしているからか?」
杯を飲みほすフティン。ふとタイシを見る。
「……そんな怖い顔をするなよ! 怒っているのか? 戯れだよ! まあ、その……アクタがウキマイとやらに譲位してしまったらどうなると思う? たぶんウキマイとやらはキタン人を尽く殺すぞ」
「そうでしょうか?」
「いまジュルチェン軍で、いちばん力を持っている者はネモホであろう。しかし彼に謀を与えているのはグシェンなのだ。グシェンは、ことあらばキタン人を戮【ころ】そうとしている。ここに爾を閉じこめたのはグシェンであろう?」
「……」
「……アクタの病は篤いのか? 爾は医事を知る。どうだ?」
「じかに切脈(脈を診る)などしないとわかりません……。しかし、顔を見たところ……」
「そんなにひどいのか?」
タイシは頷く。
「ますます好機というべきだ。さて、どうしよう? 流言とかを造ろうかな?」
「流言ですか?」
「うん……まず……天祚か梁王が西北諸部を率いて来る……これは最後のことであろうけれど」
「それはいけません。ジュルチェン人らの喜ばせるだけです」
「そうか? それなら、平州の張覚と燕京の郭薬師が兵を合わせて上京を攻めるとか」
「……彼らに何の利を齎【もたら】すのですか? 張礼部はともかく、郭薬師はジュルチェンと戦うでしょうか?」
「ならジュルチェン内部。たとえばオルゴンが謀反する」
「オルゴン?」
「オリブの母弟だ。兄オリブが皇太子でないのを、彼は嘆いていた。キタンや漢人は父子で相継いでいると言ってな。同じことでプルク。こいつはウキマイの子だ。このままだとウキマイからシエ、尽きればアクタかアクタの兄の子にまわる。プルクに位はいかない」
「……オリブは位を奪うようなことを嫌うでしょう。プルクとやらの状況もウキマイの嗣位で変わるはず。金主の甥から子になるのですから」
「う〜ん。……爾に何か良策はないか?」
「……もうアクタは死んでおり、近くにいるネモホが兵を挙げ、印璽を奪った」
「は!」
「これであれば、ウキマイはこちらへ来るのをやめ、郎君らはネモホを問い質すために、各の兵を集めます。諸部族は事態をを見まもるため動かない」
「おお! それでいこう」
フティンは手を叩く。
「外に聞こえます」
「すまん」
「キタンの諸王・公主も出したい」
「諸王? それは難しい。趙王は夫婦仲睦まじくしている。ほかのことはいらないようだ。秦王・許王は猟をおぼえ熱中している。諸王をキタンの営につれもどしたとして……どうかなあ。梁王も自立したことだし」
「そんな」
「公主・妃嬪はジュルチェンの諸郎君に配されており、捜すのは大変だぞ」
「……」
「やや蜀国公主に会うのは易いかな。オリブ郎君はキタンに、特に爾に好意を持っているからな。それより爾の兵はどうする? 我は数人のみだ」
「こちらで何とかします」
「そうか? いつにする?」
「流言はすぐに。我は蜀国公主に話してみます」
「うむ。我も諸将相のようすを見て問いかけてみる」
フティンは笑い、立ちあがる。タイシも立って外を伺う。すでに暗くなっていた。ジュルチェン兵らしき影が多数いる。タイシはフティンを顧みて穹廬の隅を指さす。フティンは頷いて、皮衣を被る。タイシはフティンに拱手すると外へ出た。兵が集まり槍をかまえる。兵の一人が言う。
「出るな! 何か用か?」
「酒食が足りない」
「何を言っている! さっさと中へもどれ!」
「あ!」
タイシが遠くを見つめた。兵らが釣られてその先を見る。タイシがくしゃみをした。
「……ジキリ」
タイシがつぶやいた。兵らがふりむく。
「何だ?」
「キタンの習いで、くしゃみのあと“万歳”というのさ」
タイシは腰を伸ばして首をまわし、ようやく穹廬に入った。
すでにフティンの姿はない。空となった碗や杯が残るのみ。
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