皇天順ならず(高汝蓮)第28話

タイシが鞍を整えていた。
「我は、ほとんどオリブ太子にしか会っていない」
人夫が轡を執る。
「それはまた……」
「まあ、ほんらい我は俘虜なのであるから……。オル都統はオリブ太子を立たせるつもりなのであろうか? そのために我を近づけたのか?」
「皇太弟が在るのでしょう?」
「うむ。……もともとジュルチェンは兄弟で相継いでいたようだ。アクタも兄からジュルチェン部の節度使を嗣いだという。しかし、アクタが号を称えた已上、難しくなるであろう。このままであれば、アクタからウキマイ、シエ……となり、次の世はアクタの子でなくて、その兄の子から始まる。……まず、そのようなことはない。たとえばアクタの子とウキマイの子。どちらが皇統を継ぐのか」
「オリブとやらは有利でないのですか?」
「いいや、諸子中最嫡に在るのはシェンガという者らしい」
「それは生母の出身氏族の違いでしょうか?」
「そうであろう。……アクタの子は十六人。七人の夫人から生まれたらしい。そのうち一人は蕭氏であるそうだ」
「え! キタン人ですか?」
「いや、わからない。もう卒したらしい」
「アクタが殺したとか?」
「……」
「女(むすめ)は?」
「わからない」
「天祚は四人の后妃に男六人、女六人。負けていますね」
「何だ、それは?」
「后妃といえば、リンヤ。アクタから妻を、賜った!そうで」
「……」
「どのような夫人ですか?」
下を向いていた人夫が面を上げ笑顔で聞く。
「ジュルチェン人だ。しかしワンギヤ氏でない」
「そうですか」
彼は再び下を向いた。笑っているようだ。
「何かおかしいか?」
「いいえ、すみません」
「脚に疾をもっている」
「脚?」
「我が逃げにくいように選んだのであろう」
「……。子も在るとか?」
「キタン人の孤児だ」
「名は?」
「ディリとトゥデ」
「また、よく有る名で。誰の子ですか?」
「それを教えてくれないのだ」
「はあ。もしかしたら……」
「何を考えている!?」
「いえいえ」
人夫が辺りを探る。
「おかしいですね」
「うむ。兵が増えている」
「何かあったのでしょうか?」
「わからない。しかし……もしかすると……」
「何ですか?」
「いや、いい。……近頃、オル都統に会えない。燕京や南朝の官人、それから奚王の残党に、ついぞ遇えないのだ。必ず虞参政から何か有ったはずだ。また、卿らに見えることすら難しい」
「我が何とかします。このように人夫に身をやつして」
「卿はブギヤヌの営に居るとか。オル都統は擒にしたキタン人をオリブ太子とユドゥクの営に住まわせていると言っていた」
「つい最近、移ったのです」
「キタン人を、さらに分散させるつもりか?」
「我は明日、ウイグルの商賈に会います」
「そうか。むりをするな。オリラ国舅!」
オリラが髭面で笑う。
そこへ婦人が到る。足を引きずっていた。
オリラはタイシに鞠躬し去る。
タイシが顧みて言う。
「何んだ?」
「デ=ボギレの使者です」
「……わかった」
「……」
「まだ何かあるのか?」
「あの人もキタン人ですね?」
「え? 話が聞こえたのか?」
「いいえ。ただ、袖のまくりかたが……」
「あ!」
タイシもオリラも袖をまくり、上衣の裾を帯に掛けていた。
「リンヤ! これを見ろ」
タイシが天幕に入るなり、オルが紙を開いた。
「……これは?」
そこに幾つかの字が大書してある。
「旗幟に記してある字ですね?」
「うむ。ジュルチェンの字だ」
オルが側に居る一人を指す。
「大金人に文字はなかったので、初めキタン字や漢字を用いていた。大聖皇帝は、彼に命じて本国字を撰べさせ、制度を備えさせたのだ」
その彼がタイシに拱手する。
「王希尹、ワンギヤ=グシェンだ」
タイシもグシェンに拱手した。
オルが説く。
「彼は宗室の籍に入っていない。しかし皇上の挙兵から常に行陣に在った」
後から、わか者が紙の束を持って来ている。
「彼は漢人の楷字を依倣し、キタン字の制度に因って本国語に合わせ、ジュルチェン字を製【した】てたのだ。天輔三年(1119年)八月、字書は成った」
オルはタイシに、ほかの字を見せる。
「どうだ?」
「はあ……」
タイシは、それら数枚の紙を案の上に置き、その字をよく見た。
「我らに文字がなかったことで、記録もなかった。ゆえに祖宗事は載せていない。叔父……皇叔となるのかなあ……にアリゴメンというのが居て、およそ一聞見すれば終身忘れなかった。祖宗族属の時事を並びによく黙記していたのだ。彼が寝疾となったとき、ネモホが日に(毎日)往って、これを問い、尽く祖宗旧俗法度を得た」
オルが息をつく。
「そこで皇上は、この者に国史を備えさせようとしている」
わか者がタイシに拱手した。タイシも応える。
「ワンギヤ=ウエ、王勗【きょく】です」
「我の従弟であるけれど、まだ二十五だ」
ウエが書をタイシの前に出す。
タイシが開いて読む。
「漢字だ。……始祖。諱は函普……」
オルが手を叩く。
「さて! 急いでいたのだ。我は行かねばならん。リンヤ、また後ほどな」
オルが天幕を出る。ウエは紙や書をかたづけ、抱えて戸に向かう。
グシェンがタイシを顧みて語る。
「タイシ=リンヤ、爾は何を考えているのだ?」
「は?」
「ふん。何を考えようと、できないであろう。我らが監視しているからな。皇上は賞し、デ=ボギレ(オル)は誉めて、爾を大金国に取りこもうとしている。……しかし、我やイライ=ボギレ(ネモホ)、そしてアンバン=ボギレ(皇太弟ウキマイ)は、そう想っていない」
「……」
「それにな、タイシ=リンヤ。ここに居れば爾もジュルチェン字を使わねばならん。……キタン字を捨てて」
「!」
「それが厭ならば、さっさと遁去しろ。そうすれば我は、爾やアガの女、ほかのキタン人の誅殺を許される」
グシェンは顔色を変えずに言い、ゆっくり躰を廻らし、天幕の戸をくぐった。
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