皇天順ならず(高汝蓮)第27話

「あ〜ら、タイシ=リンヤ! 来たわね」
駆けていたユリエンは轡をタイシのと並べた。
「ジュルチェン兵は?」
「後から追ってくるでしょう?」
タイシは馬を下りようとする。ユリエンはタイシの馬の牽控(手綱)を執って止めさせた。
「毎日のようにジュルチェンの郎君(宗室。皇族子弟)の宴に招かれているんですって?」
ユリエンは嬉嬉として手を離す。
「ずいぶん優遇されているのねえ」
「いえ、そんな……擒のままです」
「リンヤはいいわ。わたしなんか降嫁でなく、下賜されたのよ! まるで娼妓か奴婢!! それも戎主によって敵将に!!!」
「……」
「俘虜だから、しかたないわよね」
「……」
「それに、父の宮廷に、わたしの居る処なんてなかったし」
「え?」
「わからないの? わたしは文妃の女(むすめ)よ」
「!」
「ほかの公主は元妃か宮人。父は冷たかったわ。子のない皇后は優しくしてくれたけど」
「……」
「こっちには母の姉が居るから。まあ、ユドゥクが妻を、どう扱っているか知らないわ」
「……」
「あいかわらず口数が少ないのね」
地を見ていたタイシが面を上げる。
「ん? 何? その変な目は? ……もしかしたら、オリブ郎君の前で舞ったこと?」
「いえ」
「う〜ん、そうね。軽挙妄動だったかしら? あいつね、わたしと遇ったあと、毎日、玉の釵【さい】(かんざし)や金の釧【せん】(うでわ)なんかを贈ってきたの」
「!!??」
「その、お返しよ」
「しかし……」
「それに、白楽天の“胡旋女”は諫める意を含んでいるのでしょう?」
「はあ……」
「あれで兄も殺されないで済んだみたいだし。わたしと妃のおかげで! ……それより、リンヤ、妻をもらったんだって?」
「……」
「それなのに殆ど家に帰らず、帰ったところで馬を扱ってばかりとか」
「……」
「かわいそうよ」
ユリエンは辺りを見まわす。タイシの前に、少し離れて馬に乗っている者が一人、徒歩の兵・人夫が三人いた。
将校が近づく。
「……いつもの大叔(おじさん)は?」
「は!?」
「さえない将校が視ているだけなら、擒に見えないわ」
タイシは将校を見る。将校は怒った、というより困ったような顔をしていた。
「……このかたも郎君ですよ」
「へ?」
「……ワンギヤ=ウグナイ。大聖皇帝の弟の一人……」
将校は小さな声で言った。
「ふ〜ん」
ユリエンはウグナイを眺めた。
「今の後嗣も弟なんでしょう? それなら、いつかは位を嗣げるの? 都統とか、……なんだっけ? ボギレ(長官)とかミンガン(千夫長)なんかに任じられていないの?」
「いや……」
ウグナイは、まだ困った顔のまま。
「ほかの兄弟に比べると、その……」
「だめなのね?」
「……」
しかしウグナイは、やはり怒っていないようで、かえって沈んでいる。
「リンヤ、麾下の兵は、どうしているの?」
「わかりません。ほかのキタン人と共に、どこかのジュルチェン営に捕らわれているものと思われます」
「そう」
やがて将兵が至る。
「あら、ぞろぞろやって来たわね。や!……嫌なやつもいるわ!」
オリブは馬を下り、タイシとウグナイに対して拱手する。タイシとウグナイも同じ事をする。ユリエンは、それを止めない。ウグナイは危うく跪くところ、オリブが已めさせた。
ネモホはウグナイに拱手した。しかしタイシに向かってせず告げる。
「リンヤ、逃げなかったようだな」
タイシは意と為さず拝した。
ユリエンがオリブに言う。
「遅いわ」
オリブは苦笑した。
「彼の麾下も虜となっているのでしょう? 返しなさいよ」
「ばかなことをいうな!!」
ネモホが大声を出す。
オリブが、それを制した。
「い……いや、そうはいかないのだ。リンヤは、もっと多くの兵を己の営に残している。それを大金国に入れてくれれば、諸将も許すであろう」
「あら? 許すのは“大聖皇帝!”一人じゃないの?」
「う……ん」
ユリエンは笑う。
「いくわよ!」
ユリエンは馬を駆けた。
男らは相顧みる。
ウグナイが言う。
「どこが奴婢なんだか。それより、ほんとうに公主なのですか?」
将兵らが馬を躍らせる。
それを人夫らが追う。
オリブが草むらを射た。獣が起き遁れる。
「あ! 外したか!」
悔しそうに弓を振った。
「どこへ行った?」
兵らが捜す。
このときタイシは馬を下り、鞍を整えていた。
ネモホがタイシに近よる。
「前に南使(宋の使い)を打囲(狩猟)に随わせた所、獣を一発で殪【たお】したぞ。爾はどうかな?」
タイシは辺りを見まわす。側に居た人夫に何かを言うと、忽ち馬に騎し趨る。ネモホが追う。人夫が違う方へ走った。すぐに獣が起きた。それも数頭。タイシと人夫が囲む。獣はオリブの目前に出る。すかさずオリブが迎え射ち、獲た。
「おお、リンヤのおかげだ!」
ネモホは舌打ちした。
湖の畔に天幕を張る。
酒肴を具え、宴に赴く。
オリブがタイシに盃を逓し酬【むく】いる(勧める)。
突としてネモホがタイシに言う。
「アガ(天祚)は十五歳で子を生んだとか? 爾は?」
ユリエンが応える。
「我らの太祖は長子を二十八歳で為したわ。リンヤは二十九よ。遅いことないわ」
ネモホは咳ばらいした。
「……爾は先〔祖〕の事をデ=ボギレに言わなかったそうだな? どうしてだ?」
タイシは口を開かない。
オリブがしゃべる。
「我も知りたい」
再びユリエンが語る。
「昔、権臣が居たわ。皇帝の寵の厚いのをいいことに、忠臣を多く斥け、皇太子まで謀殺したの。やがて、その権臣は誅殺された。皇太子の子が即位すると、権臣の党も誅されたわ。そのあいだ皇帝を諫め、権臣を牽制し、刑罰の他に及ぶのを防ごうとして、かえって辺〔境〕に徙【うつ】されてしまった皇族が居たの。その一族に出仕は望めなかった。しかし子弟の一人は、皇族……それも横帳……太祖の子孫よ、なのに科挙に応じ、殿試第一人になったの。南朝で言えば状元よ!」
ネモホが言う。
「しかしアガやネリ(秦晋王)を諫められなかったのであろう?」
「彼を引くよう奏したのは秦晋王で、それを天祚皇帝は赦したの。それだから彼は秦晋王に恩をかえそうとするし、天祚皇帝に忠を尽くそうとするのよ」
タイシが険しい顔をしている。ユリエンが覚って言う。
「あら、言っちゃいけなかった事かしら? 誤っていないでしょう?」
タイシは首をふった。オリブやウグナイは、うんうん頷いている。ネモホは、ふきげんなようす。
「口の減らない女だなあ。奴婢のくせに」
「妬いているの? わたしみたいな高貴な女を欲しかったんでしょ」
「何……を!?」
ネモホが急ぎ立つ。しかし徐にユリエンは、その前に至り跪く。
「失礼いたしました」
「う……ああ。もういい」
ネモホは去った。
オリブの顔は蒼白となった。
ユリエンが微笑する。
ウグナイや、ほかの将兵は笑っている。
タイシは腕を組み何かを考えているようだ。
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