皇天順ならず(高汝蓮)第26話

男は馬の脚下のほうに屈んでいた。
馬の蹄と、木らしいでつくられたもの、それぞれに四つの竅【きょう】(穴)を鑿【うが】ち、それらをひもで綴っている(蹄鉄。しかし鉄でなく木で作ったらしい)。
声音。
男が顧みる。
少し離れた処に少年が立っていた。その前に獣がよこたわっている。
「どうやって、こんな大きな猪を持ってきたのだ?」
男が、にこやかな顔をしながら問う。
少年が指さした。
粗い皮衣を著し、総髪で多髭の者が驢を引いている。その者は男を見るなり、拱手して跪いた。
男は起きあがって、その者のほうへ歩む。
その者が少し面を上げる。
男は驚いたようす。すぐに周りを見わたした。
槍を持った甲兵が数人、互いに笑いながら、しゃべっている。こちらに関心を持っていないようだ。
男は、皮衣の者に向かい小声で問う。
「今、何処にいる?」
「ワンギヤ=ブギヤヌとかいう将の営に」
その者は微笑し答えた。
男は頷くと、大きめの声で告げる。
「何か返礼したい」
「いいえ、いいえ」
その者は手を振り、ゆっくりと立ち、腰を曲げたまま拱手する。少年を見て小笑し、驢を引き去っていった。
「誰? 知っている人?」
少年が問う。
男、タイシは答えず、ただ少年の頭を撫でた。
「蕭幹……奚王は景州・薊州を破り、燕城を寇掠した。その鋒鋭はビエン[さんずい・卞](開封)を攻める意〔志〕までもっていたらしい」
「無謀な話だよなあ、フティン=リンヤ」
ユドゥクは笑いながら言い、酒をあおった。
話をしていたフティンは厭そうな顔をする。
「……宋人は情を洶洶【きょうきょう】(さわがしいようす)とさせてしまい、燕を棄てようとする謀をもつ者が、かなり有ったようだ。それを童貫はビエンから王安中へ移文(通達)した。また……」
フティンは小声になる。
「アクタが奚王に、速やかに降れば悉く汝の罪を釈す、と告げたらしい。奚王は聴かなかったようだ」
「もしかしたら、そのことを知ってタイシ=リンヤは燕京に至ったのですか?」
別の一人がタイシに酒を進める。
「いいえ」
「そうですか。わかっていれば燕京を回復できたでしょうに」
ユドゥクが、また笑う。
「宋人を退けるのはな。しかしなあ、デュエ、すぐにジュルチェン兵が来襲したであろう」
「奚王だけでなく、張覚や……天祚皇帝! 及び諸部族。そして南朝も!! それらを加えればジュルチェンも撤退を考える、と思いますけど」
「南朝も?」
「仮に燕京を譲ると言っておけば」
「なるほど!」
デュエの言に、フティンが手を拍った。
「そんな愚かなことを!」
ユドゥクは大声を出した。
「国を失うより、ましでしょう?」
「何を言う!! この……」
「静かにしましょう。ジュルチェン兵が聴いています」
先ほどから話を聞いていた老人が初めて口を開いた。
「……失礼した。シェンス枢密」
「枢密か……」
シェンスが微笑む。
「話を続けてよろしいか?」
フティンが告げた。
シェンスが頷く。
「奚兵は郭薬師と腰鋪において戦い、大敗して帰った。薬師は勝ちに乗じて追襲し、盧龍嶺を過ぎたところで過半を殺傷。従軍していた老〔人〕・小(子)や、うしろで車に乗り、糧に就いていた者(輜重隊?)は悉く常勝軍の獲るところとなった。因って宋朝が奚兵に降るよう招くと、降ったのが奚・渤海・漢軍五千余人に到ったらしい」
とつぜんフティンが咳ばらいをした。
戸の近くにいたタイシが戸を少し開け外を視る。ジュルチェン兵と思われる者が数人。
タイシが言う。
「番が代わっただけのようです」
フティンが再び話を始める。
「……ほかの奚の諸軍は老・小を失った。時に、奚人らは兵を引いて付近のキタン部落を撃ち、人畜を劫掠して、群情を大いに駭【おどろ】かせている。そういうことから奚人もキタン人も皆、蕭幹の誤るところであると、彼を忿【いか】り怨【うら】んだ。ついに蕭幹は、その部曲ボ=ディゴ、都統エリ=アグジェ、その甥イシとバキンらの殺すところとなったという」
「ざまあみろ!」
ユドゥクが大笑した。
それを見てフティンが顔をしかめる。
「奚王とユドゥク都統とのあいだに隙があったからな。奚王も来難かったろう」
シェンスも頷く。
「そう、睚眦【がいさい】(にらみ)あいするばかりであった」
ユドゥクは、しらけたらしく黙ってしまった。
「アグジェ都統……」
タイシが嘆息した。
シェンスがいう。
「タイシ=リンヤ、アグジェは卿と共に燕京を出たのであろう?」
「はい」
「けっきょく、こうなるのであればアグジェは何を考えて奚王に附いたのであろうかのお?」
「まあ、タイシ=リンヤは奚人に従わなくてよかったのですよ」
デュエが告げた。
フティンが説く。
「しかし重徳がいれば、奚王も滅びなかったであろうに」
「さあ……」
タイシは首をふる。
「そのアグジェはどうなったのだ?」
ユドゥクがフティンに尋ねた。
「そのことについて宋人は教えてくれなかった。ただ、その党ドリブは峯山に在って、また郭薬師に敗れ、“太宗尊号宝検”及びキタンの塗金印は皆、宋の獲るところとなったという」
「何故、それを奚王が持っていたのだ?」
ユドゥクが問う。
タイシが答える。
「天祚が燕京に遺していったのです」
「ふん、あの……」
フティンがユドゥクの言を遮る。
「奚王の妻アグは、これを聞いて自ら剄【くびは】ね死んだ。これから先、スグ部人は劾山に拠り、デニ部の衆も険を扼【おさ】え、ジュルチェンを拒み、戦った。しかし、殺され殆ど尽きたという。ここに至ってスグ・チュリ・デニ三部の拠る所十三厳すべてジュルチェンに討たれ平らげられた」
「奚は、もうジュルチェンに併呑されたか」
皆、口を閉ざす。ひとりユドゥクは嬉しそうである。
久しくしてタイシがフティンに聞く。
「ところで梁王についての報は?」
「うむ。テムゲ・ディレ・ウチらが梁王を立てて帝と為し、西北諸部に奔ったという。ウグ部節度使ギュジェ・テレイ部統軍タブイエ・都監トゥリブらは各その衆を率いて来附し、これより諸部も継いで至ったらしい」
ユドゥクが、また笑う。
「もう遅い。二年前、天祚がデリディでなく我に従って晋王を立てていれば、今日のことはなかったであろうに。燕京どころか西京・東京・上京を失わずにすんだ」
ユドゥクの笑いが穹廬に響く。
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