皇天順ならず(高汝蓮)第2話

「白溝駅(河北新城南)から、いま還りました」
 オリラが告げる。
 彼は甲冑のままである。折上巾・左衽【さじん】(ひだりまえ)・窄袖【さくゆう】(つつそで)の紫袍・金帯・六合靴【りくごうか】(丈の短い革の長靴)のタイシが、茶を勧め、問う。
「労したな。如何であった?」
「追い返されました」
「……」
「皆、怒っています。告謝使を国境で返し、国書を却【しりぞ】けるなど。それに宋人は“天祚は、まだ夾山【きょうざん】(山西の北?)に見在なのに、燕王(天錫皇帝)は、どうして擅【ほしいまま】に立つことを得たのか”と言っているようです。天祚皇帝、いや湘陰王の所在を何故知っているのでしょうか? これはジュルチェンと通じている証拠です」
「……」
「また、宋は兵を進めており、すでに『榜【ぼう】(たてふだ)』を掲げ、そのことを国境の衆に示しています。そして我らに対して、使者と宣撫司の『書』を送ってきました。さらに宋主による『詔』が有ると言っています。……ところで白溝で李処温の子らしき者を見かけたと、兵の一人が話していました。彼は宋を諜【うかが】っているのでしょうか? それか燕京の……」
「……言うな。その兵に黙っているよう伝えておいてくれ。主上(天錫皇帝)は、まだ李処温を信じている」
「彼の専横は過ぎています。抑えられないのでしょうか? 張太師は?」
「元老として軍国事を平章するはずであった。しかし、十日に一朝のみ。張太師の位が己の上に在るのを、李処温が欲しなかったのだ」
「これから先、李処温が権柄を執るのですか?」
 タイシが立ちあがった。
「行こう」
 二人は穹廬を出た。

 宮殿に百官が集まっている。
 天錫皇帝は折上巾・黄袍・九環の玉帯・六合靴。
 李処温らは折上巾・紫袍・牙笏・金帯・六合靴で、ほかの百官は折上巾・緋袍あるいは緑袍・木笏・銀帯・六合靴であった。
 大臣の一人が書を皆に示す。
 皇帝が頷く。
 大臣は一つ咳払いをし、それを読み始め、次いで、ほかの者が、それを別のことばで語った。
「O月O日、太師領枢密院事充陝西河東河北路宣撫使楚国公童貫、謹んで書を秦晋王閣下に致します。蓋し聞いていることです。天に順じる者は昌【さか】え、天に逆らう者は亡び、人心を得ている者は、以て国を立てることでき、人心を失う者はよく邦を守ることなし、と。(中略)〔童貫が〕惟【おも】いますには、〔秦晋〕国王は、大遼において親として叔姪であり、義として君臣でございます。白水の師で〔天祚皇帝は〕播越蒙塵したのに、〔国王は〕兵を率いて難に赴き、これ(天祚)を復位させることできず、隙に乗じて自立しました。〔これが〕簒【うば】う、ということでなくて何でしょう? これは天に逆らうという所です。西京の危急、亡は朝夕に在るのに、国王は、さらに兵を遣わすことできずにいます。(中略)すなわち、これ燕・薊・雲・朔は、名(名目)として主を有するとしているけれど、その実、主を無くしています。国王は春秋高く、かつ、さらに子をもっていないのでしょう。(中略)燕の人は何の辜【つみ】で坐して残滅を待っているのですか。〔宋の〕皇帝は惻然【そくぜん】(あわれみ)に、これを念じ、そこで〔童〕貫に命じて兵百万を領衆させ、燕人を水火から救わせようとしたのです。(中略)おもうに国王も、またすでに知っているのでしょうか。国王は温恭で和裕、古今の存亡の機に通達しており、洞然として深く悉【つく】し、善く計りを為す者でありましょう。(中略)禍を転じて以て福と為しましょう。もし、よく開門・迎降し、帰朝・納土すれば、国王をして世世、王爵の封を失わせず、燕人に斧鉞の患いを踏ませることありません。孟蜀・南唐および両浙の銭王(いずれも十国の王)は、昔かつて〔宋に〕納土し、並びに王の封を享け襲伝して今に至っており、子孫は昌盛しております。天下の耳目は、皆、共に知るところで……」
 クリブが叫んだ。
「ええい、もういい! 止めよ!」
 皆、声の主に顔を向ける。
 李処温が言う。
「奚王、皇帝陛下の御前です」
「このように侮られて黙っていられない。我らの告謝使を拒んで、このようなものを! この書を齎した者らを逐い返せ!」
 李処温が更に告げる。
「いけません。そのような軽率な行いは慎むべきです」
 天錫皇帝が宣べる。
「奚王の言ったことは当然である。李太尉、使者は何処か?」
「永平館に留めています」
「斬れ」
「は?」
 李処温が牙笏【がこつ】(象牙のしゃく)を落した。奚王クリブは、にやりとして、すぐ廊下に出て、兵に告げる。
「陛下? ……左司徒? いいのですか? 虞参政? リンヤ?……」
 やがて折上巾・曲領大袖の青衣・革帯・履の二人の男が兵によって殿庭に引き出され、すぐ、何処かへ曳いて行かれた。
 李処温が、さらに何かを言おうとすると、それを虞仲文らが遮る。
 天錫皇帝が諸将・諸大臣に宣【の】べた。
「彼らは、大遼の告謝使を追い返し、宣撫司の使者、それも降人(宋に降伏した者)を以て、このような書を送りつけたのだ。その罪を問わねばならない」
 皆、鞠躬【きくきゅう】(おじぎ)した。

「主上の鋭気は衰えを見せてない!」
 諸将・諸大臣が宮殿から出、別の館に入った。扁額に“于越王廨”とある。そこで酒食がふるまわれた。李処温は来ていない。
「皆も李処温に諂【へつら】っていないぞ」
「これで諸部族・諸州県が再び心服してくれるならば……」
「そうであってほしい」
「しかし、偵邏【ていら】(偵察)によると、沙漠以北の諸部族は、いまだ保大二年と称しているそうだ」
「西京は、とうとうジュルチェンに敗れたらしい」
「西北面招討使フティン=リンヤも降ったと言うぞ」
「……」
「“春秋高く、子を持っていない”とは痛いところを衝かれた」
「公主(皇女)は有るというのに」
「皇子の代わりに秦王がいます。のちのち秦王が継げば、簒奪などと誰も言わないでしょう」
「うむ。けれど諸部族は秦王を容れるであろうか? 彼らは湘陰王よりアクタを選んだのだ。いま改めて湘陰王の子を皇帝として仰ぐか? また、我らにしても湘陰王を廃位したのに、その子を迎えるというのをどう思うであろうか?」
「それより天錫皇帝と同じく、宗室の有徳者を推したほうが善いと思う」
 そのとき一人の兵が館に入り報じる。
 それを聞き、皆、急いで宮殿にもどった。

 兵十数騎が殿庭に入った。
 その中に縛られて、甲冑を被っていない男がいる。
 その男を見て、天錫皇帝と諸将・諸大臣も唸った。
 兵らは左足を立て、右足を跪き、両手を右肩に着ける。
「蒙塵した天祚……いや、湘陰王は……」
 彼らの一人が奏した。
 左企丘が言う。
「よい、続けよ」
「……湘陰王は夾山に入ったそうです」
 李処温が問う。
「夾山は如何なる所か?」
「沙漠の北、泥潦【でいろう】(ぬかるみ)六十里(33キロ)に有って、独り契丹のみよく達し、他人の至らざるところです」
「衛兵を率いていた同知殿前点検事ガウバは如何した?」
「ジュルチェンに降ったそうです」
 皆、ため息をつく。
 クリブが聞く。
「どうして、この男がいる?」
 左衽窄袖の紫袍の男は縛られたままであった。
「湘陰王に追放されたようです」
「何と?!」
「その後、ジュルチェンに執らえられ、すぐ、そこを脱したとのこと。我らは彷徨っているところを擒としたのです」
 虞仲文が言う。
「さて、デリディ」
 男は顔を上げた。
「いまさら罪を問うのは、論を為さないと思えど、あえて言わせてもらう。
ジュルチェンが初めて起きたとき、廷臣の多くは、その未だ備えていないのに乗じて兵を挙げ、往って討とうと欲していた。爾は独り、これを沮【はば】んだ。そのため我軍は敗衄【はいじく】(敗北)に至った。諸路の大乱において、飛章(報告)で急を告げる者が絡繹【らくえき】(おうらいがつづく)して至ったのに、爾は上聞せず、功有る者に甄別【けんべつ】(しらべること)をしなかったのだ。これによって将校は怨怒して、人は闘志をなくした」
 デリディは答えない。
 虞仲文が続ける。
「国人は晋王の賢きことを知っており、深く属望するところであった。爾は、甥である秦王が立つことを得られないのを恐れ、ひそかに図って、晋王を死に就かせた」
 天錫皇帝が宣べる。
「爾は国舅(皇后を出す家)として、父祖以来、大臣を歴官してきた。それなのに、いったい、どうしたことか? ……湘陰王は爾に死を賜らなかった。朕も、それにならおう。ここから去れ!」
 デリディは黙して語ることなく、うすら笑いをうかべて、ただ李処温と天錫皇帝を見た。李処温は顔を下に向け、天錫皇帝は色を失っていた。
 男は兵に引かれて宮殿を出る。
 天錫皇帝がつぶやく。
「湘陰王は、なお在るのか?」

「宋主の『詔』です」
 官僚の一人が言う。再び百官が宮殿に集まっていた。
「略して読みます。……爾ら群黎をすくい、諸の塗炭を取るため、すでに領枢密院事童貫を遣わし、兵百万をただし、幽燕の地を収復、大金国と計議して封疆を画定しょうとしている。
……秦晋国王が、もし納土・来朝すれば、殊礼を以て待ち、世世、王爵を享けさせ……長官は並びに旧任に依る……無名の賦を一切免除する……」
などと有ります」
 百官がため息を出す。
「また『榜』の文にはこのように」
 官僚が別の紙を開く。
「……当司は睿旨を遵奉し、重兵を統率している……務めて民を救うに在り、殺戮を専らにしない。爾らは、おのおの宜しく身を奮って、早く帰計を図るべきだ。官に有る者は旧に復還し、次に田の有る者は復業すること初めの如くする。もし、よく、みずから豪傑を率いて、功効を立てるならば、すなわち優れて官職を与え、厚く金帛を賜う。もし、よく、一州一県で来帰する者がいれば、すなわち、その州県を以て、これに任じる。もし、豪傑がいて燕京を以て来献すれば、軍兵百姓に拘わらず、いまだ官に命じられていないといえど、さらに節度使を与え、銭十万貫・大宅一区を給う……。などと書かれています」
 皆、静かにしている。
「……李太尉、宣撫司の『榜』と南朝皇帝の『詔』のこと、如何すべきか?」
 やがて天錫皇帝が聞く。李処温が奏する。
「これは、すなわち軍国の大事です。臣は太尉の位で百僚の長といえど、敢えて以て管見・自処できません。すなわち大臣との共議したことを容れます。……このことは甚大なので、更に陛下の睿知と独断あれば、臣らに令して参議させてください」
「朕は眇躬【びょうきゅう】(小さいからだ)を以て、祖宗の霊を荷い、大位を獲承した。本は卿らと与【とも】に宗廟を求保しょうとしたのであった。ジュルチェンの人騎は、ふたたび西京に拠り、まだ帰国したと聞いていない。いま宋の重兵が境に臨み、ジュルチェンと共に夾攻しょうとしている。朕は人事・天時を観ると、敢えて宝位に当たらない。……藩を称してよい。……南朝と卿とは血属を同じく保っている。いまだ審らかでない。如何?」
 言い畢【おわ】ると嗚咽し流涕し、李処温もまた、このために涙を流した。
 クリブが呟く。
「主上は、李処温が宋と通じているであろうことを知っているのか?」
 タイシが言う。
「……通じているかどうか、主上が知っているかどうか、まだわかりません。……奚王こそ何故?」
「常勝軍が伝えて来た」
「……」
 久しくして左企丘が言う。
「こちらから再び使者を遣わしましょう。回書を持たせて」
 クリブが問う。
「宋兵が国境を圧しているのに?」
 虞仲文が答えた。
「すで常勝軍と痩軍を屯させている。……しかし、燕京の兵も出て備えてもらおうか」
「さて、誰に赴いてもらったらいいかな」


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