皇天順ならず(高汝蓮)第1話

「いったい、どうしたというのですか?」
「……皇帝の命令が、ここ数日この燕京(北京)に通じなく(とどかなく)なっているのだ。タイシ=リンヤ」
「それで左平章、皇帝は何処に居るのですか?」
「それは……わからぬ」
「……兵は? ナボ(宮廷)は」
「衛士……五千……は中途で潰散。従っているのは梁王・趙王など三百余騎のみらしい。ナボの内庫・三局・珍宝など、大遼国の祖宗二百年の積むところは悉くジュルチェン人に掠められ一空(からっぱ)に為った」
「五千? ……御帳親軍五十万が僅か五千に! さらに三百余騎!!」
「ユドゥクが叛いたからだ! リンヤ」
「いいえ、奚王【けいおう】。ユドゥク都統は義妹と甥を殺されたのですよ。……皇帝も妃と皇長子に死を賜うなど……」
「天祚皇帝の失徳ということか?」
「……」
「確かに文妃と晋王のことは痛惜に堪えません。しかし、それはデリディの誣告によるもの。それのみでなく、すべてデリディ枢密使が皇帝を誤らせたのですよ」
「ほほう、李門下。そのデリディが皇帝に薦めたから、卿は相(大臣)となれたのであろう?」
「……」
「何か策はないのか?」
「有ります。燕京の丁数は五十六万六千。城は方三十六里(まわり20キロメートル)、崇三丈(たかさ9.216メートル)、衡広一丈五尺(よこ4.608メートル)で、敵楼・戦櫓を具えています」
「それで? すでに西京(山西大同)ですら奪われたのだぞ。いくら堅固といえど、この燕京のみで如何しょうというのだ」
「山西の城邑・諸部は降りました。しかし、人心はいまだ固まっていません。また……天祚皇帝(第九代)は蒙塵しました。……我らは新たに主を立てるべきです。……皆も思っているでしょう。そう、秦晋王こそ、ふさわしい。王は燕京を守って十二年。深く人心を得ています。道宗皇帝(第八代)も初め、王を儲弐【ちょに】(あとつぎ)と為そうとしました。……如何かな、リンヤ?」
「……“唐霊武の故事”(安史の乱)というものがあります。しかし、それならば秦王のほうが……」
「秦王は、まだ幼い。それに生母の元妃はデリディの妹だ。奚王?」
「言うことはない」
「虞枢密は?」
「秦晋王は忠烈である。前に立てられようとしたとき、その謀に加わった義兄や甥を斬ってしまった。たぶん受けないであろう」
「そこは我に任せていただきたい。平章は?」
「王は、すでに六十歳になる」
「平章は七十二でしょう!? 張宰相、もう決まりましたな?」
「……王は帝胄【ていちゅう】(皇帝の子孫)といえど、初めに上命がなければ……。摂政ならば可。真に即くのは不可であろう」
「今日の事は天・人の与えるところです。どうして易えるべきでしょうか。請うらくは百官の班を立てることのみです! これから王府を詣でるようにと、在京の者に告報しましょう。奚王は怨軍をよろしく」
タイシ=リンヤは急いで政堂を出た。そこに長身の兵が走り寄る。
「如何でしたか?」
「う……ん」
「リンヤ、何処へ行く?」
タイシの後から奚王の大きな体が現れる。兵は身を引いた。
「オリラか? 久しいな」
オリラは顔をしかめながら、拱手【きょうしゅ】(胸の前で手を組み合わせ会釈)する。
奚王は笑った。
「……李処温も必死だな。己と結んでいたデリディが天祚皇帝と共に播越【はえつ】(さまよう)してしまったので、推戴の功で以て、位を保とうと欲したのであろう。ところで何処へ行く? まさか先に秦晋王に見【まみ】えるつもりか?」
「王の意を確かめたいのです」
奚王は大きな声を出した。
「止めたほうが善い。王が擁立を拒み逃げてしまうということになれば皆困る」
「何を言うのですか!」
「とにかく行くな」
奚王は歩きだした。しかし、すぐ立ち止まり二人を顧みた。
「ああ、名といえば、ジュルチェン主アクタの父の名は、我と同じクリブらしい」
奚王クリブは大笑した。
三人は王府に赴いた。人が集まり始めている。すでに兵が、そこを囲んでいた。彼らの旗幟には“怨”と書かれてある。それを見てタイシとオリラは、クリブのほうに顔を向けた。タイシが何かを言おうとしたとき、四人の兵が近づく。
オリラが問う。
「漢人?」
クリブが答える。
「渤海人だ」
兵の一人がタイシの前に立ち、拱手して告げる。
「郭薬師です」
「怨軍の将だ」
クリブが説く。ほかの三人も名のった。
兵が去った後、タイシが言う。
「信じられるのですか?」
「ジュルチェンを怨むから怨軍なのだろう? それに秦晋王が募ったのだぞ。まあ、もう叛乱を起こしているな。そのときの賊魁を斬ったのが、あの郭薬師だ。我の建議によって、その内の二千人を留めて四営に為したのが今の怨軍だよ。そういえば怨軍が叛いたとき、ユドゥクは悉く殺して後の患いを絶てと言っていたなあ」
大臣らは遅れて来た。李処温が少し手を挙げると、或ものが何かを持って府第の階上に登る。
処温にクリブが近づき言う。
「なるほど、これだけ人が居れば、やむを得まいと王も思うであろう。ところで、あの者は誰だ?」
「我の子でございます」
そう語り彼は府第に入った。
やがて烏巾(黒い頭巾)を被り紫袍を穿った(着た)人が、李処温を伴って階上に現れる。
そのとき処温の子が何か――それは赭袍であった――をひろげ、その人に被せ、叫んだ。
「願わくは秦晋王を策して天子と為さん! 拝舞!! 山呼!!」
「万歳! 万歳!! 万万歳!!!」
蕃人・漢人の百官と諸軍及び僧侶・道士・父老数万人が、声をはりあげながら、右手をふり挙げ、左足を前へ踏みだし、右足から跪いて、左足を引いて跪き、両手と額を地に至らせた。
「止【や】めよ! 止めよ!」
秦晋王は狼狽しながら言い、大臣らを見た。彼らは俯伏したまま。
王が告げる。
「こ、この大位に、敢えて当らないことを懼れる。……尚【こいねが】わくは辞避を容れてほしい!」
李処温が説く。
「王の宝位に龍飛されること、臣らは幸慶に勝【た】えません。ただ駑下の材を以て、新政を仰輔することに足らないのを恐れております」
「……」
王は跪き泣いた。
百官の一人が立ちあがり勧進する。
「主上は蒙塵し、中原は擾攘としています。若し王を立てないのならば、百姓は何に帰したらよいのですか!」
王は遂に頷いた。
階上に南面して榻【とう】(長椅子)が設けられ、そこに王が導かれて即く。王と百官は相議【はか】った。久しくして官僚の一人が黄書を読む。
「秦晋王に天錫皇帝と尊号を上る」
「保大二年(西暦1122年)を建福元年と改める」
「三月十七日昧爽以前の死罪以下を並びに釈免する」
「天祚皇帝を湘陰王に降封する」
「秦晋王の妻を徳妃と為す」
「張琳を守太師と為す」
「李処温を守太尉と為す」
「左企丘を守司徒と為し、燕国公に封ず」
「蕭幹を北院枢密使と為す」
百官がどよめく。
クリブが大笑して言う。
「我は一つ下の知北院枢密使事でいいぞ。しかし諸軍の都統を兼ねさせてもらうぞ」
「それはむりです」
李処温が語る。
「せめて虞枢密とタイシ=リンヤに……」
「う〜ん。わかった。好きにしろ」
「虞仲文を参知政事・領西京留守・内外諸軍都統を為す」
「エリ=タイシを西南路都統と為し、さらに軍旅の事を悉く委ねる」
「あん? 誰が軍政を総べるのだ?」
クリブが再び言った。
「つまり虞枢密が南面軍官を、タイシ=リンヤが北面軍官を。そして奚王閣下が軍政を掌【つかさど】るのです」
「……? まあいい」
「李処能を枢密直学士と為す」
「怨軍を常勝軍と為す」
「大遼の民で、ジュルチェンの起兵から、山谷・沙漠間に竄【のが】れていたものを燕京に招く」
「宋に使を遣わし、歳幣を免じ、再び好を結ぶ」
「ジュルチェンに使を遣わし、兵を罷めんことを求める」
「河西(西夏)に使を遣わし、援兵を求める」
「数十人を定策の功を以て官に補す」
「李爽・陳秘・李宝信ら十九人に大計に与ったとして進士及第を賜い、官を授ける」
「西京で兵変が有り、ジュルチェンを拒んでいるらしいので、兵を発して応援する」
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