僭僞列伝 朱粲(高汝蓮)

 朱粲【しゅさん】は亳州【はくしゅう】城父(安徽亳東南)の人。初め県の佐吏【役人】であった。

 このころ大隋皇帝楊広(煬帝)の政は荒れ、天下は大いに乱れる。楊広は多く猜忌【さいき】(きらうこと)を以て、大臣を殺戮し、江都(揚州)に南遊した。

 丙子歳(隋の大業十一年)十二月二十二日(グレゴリウス歴616年1月19日)朱粲は従軍して長白山(山東)の賊を討つ。
 従軍者は遂に聚結し群盗となり“可達寒賊”と号す。
 朱粲は”迦楼羅王”と自称。
 衆は十余万に至る。
 朱粲は軍を引いて淮を渡り竟陵【けいりょう】(湖北鐘祥)・ベン[さんずい・正・亅]陽(湖北)を屠って、後に転じ山南を掠めた。
 郡県は守れず、至る所で殺戮され、ショウ[口・焦]類(民衆)を遺【のこ】さず。
 朱粲は克つ所の州県すべての蔵粟を発して以て食を充たす。
 遷徙に常無く、去れば、たちまち余貲【よし】(資)を焚【や】き、城郭を毀【こぼ】つ。
 さらに稼穡【かしょく】(農業)に務めず、劫掠を以て業とした。
 是に於いて百姓は大いに餒【う】(飢)え、死者は積まれ、人は相食んだ。
 朱粲の軍中も、ことごとく竭【つ】き、虜掠するところ無ければ、すなわち嬰児を取り蒸してくらう。
 朱粲は因って軍士に令す。
「食の美なるものは、どうして人肉に過ぎようか! 他国に人有れば我は何をしんぱいするであろう」
 そこで所部を勒して婦人・小児を略得すれば、皆これを烹て軍士に分給す。
 隋の著作佐郎の陸従典・通事舎人の顔愍楚が譴【けん】(罪)に因って左遷され、並びに南陽(河南)に在った。朱粲は悉くこれを引いて(率いて)賓客と為す。後に朱粲の軍が飢餒【きだい】(飢饉)に遭い、陸や顔の両家を合わせて食った。
 また諸城堡に“税”して小弱男女を取り以て兵糧に益する。諸城は“税”を懼れ皆相携えて逃散。


 ……丁未歳二月十九日(617年4月3日)李密が鞏【きょう】(河南)にて魏公に即位し永平元年を称える。
 ……十一月九日(617年12月15日)李淵が遂に西京(長安)に克つ。十五日(21日)李淵は代王楊侑(楊広の孫、恭帝)を迎え皇帝位に即かせる。大赦、義寧と改元し、遙かに尊んで楊広(煬帝)を太上皇と為す。李淵は唐公に進封される。


 朱粲らは李密に使を遣わして表を奉じ勧進する(帝位に即くことを勧める。大業十四年・義寧二年・唐の武徳元年正月十五日、618年2月18日)。


 ……戊寅歳三月十五日(618年4月18日)江都にて宇文化及が令狐行達をして大隋皇帝楊広を縊り殺す。隋氏の宗室外戚は少長なく皆死んだ。ただ秦王楊浩(楊広の甥)は全うし立てられ帝となる。
 ……五月十四日(618年6月15日)楊侑が位を李淵に禅る。二十日(6月21日)李淵が皇帝位に即く。武徳と改元。
 ……五月二十四日(618年6月25日)東都(洛陽)の王世充らが越王楊トウ[にんべん・同](楊昭の子、楊広の孫)を奉じて皇帝位に即かせる。大赦、皇泰と改元。楊広に諡して明皇帝といい世祖と廟号をおくり、元徳太子楊昭(楊広の長子)を追尊して成皇帝といい世宗と廟号をおくる。王世充を納言鄭国公とする。


 朱粲は唐の山南撫慰使馬元規(五月)宣州(安徽宣城)刺史周超(七月二日、8月1日)に撃ち破られた。
 かわって王世充に使を遣わし降る。王世充は朱粲を以て楚王と為す(九月)。

 ……九月に宇文化及が楊浩を鴆殺し魏県において皇帝位に即き、国号を許に、天寿と改元、百官を署置く。
 ……十月八日(618年11月3日)李密が唐に降る。

 十月九日(618年11月4日)トウ[登・おおざと]州(河南トウ)刺史の呂子臧【りょしぞう】は所部数千人を率いて馬元規と与に力を併せ可達寒賊を撃破。
 すぐに朱粲は余衆を収輯する。兵は又大いに盛ん。朱粲は冠軍(河南トウ西南)において“楚”帝を僭称、建元して“昌達”とする。衆二十万を有した。
 馬元規は懼れ南陽に退保する。朱粲は兵を率いてトウ州へ進攻し南陽を囲んだ。霖雨【りんう】(三日以上続く雨)に遇い城壁が皆壊れる。これにおいて呂子臧はその麾下を率いて朱粲の軍に赴き死んだ。にわかにして城も陥り、馬元規も害に遇う。

 十月二十五日(618年11月20日)朱粲が淅州【せきしゅう】(河南南陽西南)に寇する。

 ……十一月に竇建徳が国号を改め夏といい五鳳と改元する。

 十二月十一日(619年1月4日)唐の太常卿の鄭元壽[壽は玉偏]が朱粲を商州(陝西商)に於いて撃ち、これを破る。
 十二月十三日(619年1月6日)唐は趙郡公の李孝恭を遣わして山南を招撫させる。朱粲〔の軍〕に進撃して、これを破り、その衆を俘【ふ】(とりこ)とする。尽く赦して殺さず。このことから書檄の至る所は相継いで〔唐に〕降り款をおくる。

 ……十二月三十日(619年1月23日)李密が唐に殺された。

 己卯歳(唐の武徳二年)正月二十六日(619年2月18日)朱粲は衆二十万を有し漢・淮の間を剽掠する。楊士林と田サン[王・贊]が兵を率いて以て朱粲に背く。諸州も饗応し、相聚【あいあつま】って朱粲を攻め淮源において大戦。朱粲は敗れ数千の兵を以て菊潭県に奔る。
 閏二月一日(または二日。619年3月25日)朱粲は唐に使を遣わし降ることを請う。
 閏二月五日(六日。619年3月29日)唐は御史大夫の段確を仮散騎常侍として朱粲を迎えさせ、これを労【いたわ】る。朱粲を以て楚王と為し自ら官属を置くことを聴し以て従事に便宜せしむ。

 ……竇建徳が宇文化及と連戦し大いにこれを破り生擒し斬る。

 四月三日(619年5月19日)段確は酔いに因りて朱粲を侮って言う。
「卿は人を食らうと聞く。何を滋味【じみ】(美味)と作すか?」
 朱粲が謂う。
「もし酒を嗜む人を食らえば、正に糟蔵の猪肉(粕漬けの豚肉)に似ている」
 段確は怒り慢罵した。
「狂賊め! 入朝した後に、一頭の奴のみ(部下を取り上げられ、一人になる)。さらに人を食らえようか!?」
 朱粲は懼れ、坐において段確および従者数十人を収め、悉くヨウ[雍・食](煮物)とし左右に饗す。すぐ菊潭を屠り、王世充(四月七日、619年5月28日、大鄭皇帝の位に即く)に奔った。朱粲は拝して龍驤大将軍となる。

 ……五月二十五日(619年7月15日)王世充が、兄の子王仁則、及び家奴の梁百年を遣わし、楊トウを酖【たん・ちん】(毒殺)させようとし、薬を飲ませる。〔息〕絶えず。帛を以て、これを縊り殺す。諡して恭皇帝という。
 ……八月一日(619年9月17日)〔唐に保護されていた〕楊侑が薨じる。諡して隋恭帝(これによって隋の恭帝は二人)という。後無く族子の楊行基を以て嗣がせる。


 辛巳歳(武徳四年)五月三日(621年5月31日)竇建徳が唐の擒となった(七月十日、8月5日殺される)。
 五月十日(621年6月7日)王世充は素服、その太子・群臣二千余人を帥【ひき】いて、唐の秦王李世民の軍門を詣でた(降伏。七月に殺される)。
 十一日(6月8日)李世民が洛陽の宮城に入り、王世充の党で罪の尤大なる者など朱粲ら十余人を、洛水の上にて斬った。
 士庶は、朱粲の残忍を嫉【しつ】し(にくみ)、競って瓦礫を投げ、以て其の屍を撃つ。須臾に(たちまち)これを封じるに冢の若くなった。


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