僭僞列伝 桓玄(高汝蓮)

元興二年十二月三日(グレゴリウス暦404年1月1日)、桓玄(三十五歳)は建康(南京)において大晋(東晋)皇帝の司馬徳宗(安帝)から位を禅【ゆず】られ、国号を大楚、年号を永始とした。
桓玄は艦に在った。
醒める。
左右は進めるに粗飯を以てした。
桓玄は、それをうまく咽【の】み下せないようだ。
子の桓昇(年数歳)を胸に抱き撫【な】でながら、尚書僕射の卞範之【べんはんし】らに語る。
「朕は敗れたのか?」
「……賊軍が火を縦【ほしい】ままにして……」
「……そうか。……即位から今に至るまで……時は凡そ八旬(80日)か」
桓玄は笑う。
「衡陽【こうよう】(湖南)に雌鶏が有って雄と化し、八十日にして冠が萎えたとか」
「陛下、そのような鄙びた話を……」
「尋陽(江西九江)に至ったとき、衆二万になろうとし、楼船・器械は甚だ盛んであったのに」
「はい。大楚の旌旗・輿服は帝たる者の儀を備えていました」
「宮中に在るときから、恒に不安を覚えていたのだよ。鬼神が擾【みだ】しているかのようであった」
「鬼神が擾す?」
「朕が水門に出遊したとき、飄風【ひょうふう】(つむじかぜ)が儀蓋を飛ばしたなあ。また、濤水【とうすい】が、石頭〔城〕に入り大桁を流壊させ人を甚だ多く殺したぞ。さらに、大風が、朱雀門楼を吹き上層を地に墜としよった」
「……」
「建康宮に入ったとき、逆風が迅激、旌旗・儀飾が、すべて傾偃【けいえん】した(倒れ伏した)。また、朕が御牀に坐ろうとしたところ、その御牀が微かに陥ったのだ。群臣は色を失っていた。侍中の殷仲文が進んで“まさに聖徳が淵重【えんちょう】(深くて重たい)なので、厚地も載せられないのでしょう!”と言って、朕を喜ばせてくれた……」
「何に不安を覚えていたのですか?」
「己の当に死すべきを恐れていた。故に時と競っていたのだ」
「死すべき?」
「即位の夕、月及び太白(金星)が羽林(水瓶座あたり)に入った。朕は甚だこれを悪む」
「そういえば南幸のおり、腹心が戦うことを勧めたのに、陛下は答える暇なく、直ちに策(鞭)を以て、天を指しましたね」
「……ああ」
「……時と競って帝位に即いたのですか?」
「昔、羊子道は恒に吾の此の意(簒奪)を禁じていた。今、腹心に羊孚(字を子道)を喪い、爪牙(参謀)に索元を失って、怱怱【そうそう】(あわただしく)に此の詆突【ていとつ】(むてっぽう)をやってしまい、どうして天の心に允【ゆる】されるであろうか」
「……天の心に允されないなら、何故、禅りを受けたのですか?」
「朕の皇考(父)、宣武皇帝(桓温)は臥して語った。“此の寂寂、まさに〔西晋の〕文・景〔帝〕(司馬昭・司馬師)の笑うところとなるであろう”やがて屈起し坐し“もはや芳を後世に流せないのであれば、また臭を万載に遺すのに足らないであろうか”と」
「今、官軍は潰え、平固王(晋帝)と璽は江陵(湖北)に、殷侍中は……叛き、劉皇后と零陵君(晋帝の皇后何氏)を奉じて夏口(湖北武昌西)へ奔りました」
「……」
「陛下、屯騎校尉の毛修之が蜀に入らんことを誘っています。毛校尉は益州刺史毛叔連の甥です。如何しますか?」
「……爾らは何とする?」
「臣らは恒に陛下の側に在ります」
桓玄は馬に乗り出た。
矢の下ること雨の如し。丁仙期・萬蓋ら身を以って桓玄を蔽【おお】い、並びに数十の箭に中【あた】り死んだ。桓玄も箭を被る。皇太子の桓昇がすぐこれを抜き去った。兵が刀を抽【ぬ】いて前にたつ。桓玄は頭上の〔冠に挿してある〕玉導(簪)を抜いて与えようとした。
「おまえはだれだ? どうして天子を殺そうとするのか!?」
「天子の賊を殺さんと欲するのみだ!!」
楚の永始二年、晋の元興三年五月二十六日(404年6月19日)、益州(成都)督護の馮遷というものが桓玄を貊盤洲【ばくばんしゅう】(不明。『資治通鑑』などの枚回洲なら湖北江陵西南)において斬った。桓昇と卞範之らは江陵に送られ、市で斬られたという。
あとがき

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