僭僞列伝 袁術(高汝蓮)

 ――兄からのたよりは久しぶりだな――。
 袁術はそう思いながら袁紹からの書を一読。すぐにかれの顔色は変わった。
「どういたしました?」
 従弟の袁胤が問う。
「読んでみろ」
 袁術は書を突き出す。袁胤は書を受けとり、読んだ。
「こ、これは! 皇帝……擁立ということですか?」
袁術は肯く。
「いったい、どういうことでしょうか?」
「兄は何を考えているのだ! これでは董卓のやっていることと同じだ!」

 数日して、ふたたび書が届いた。内容は同じである。
 親戚の袁嗣が聞く。
「しかし、大司馬どのは宗室で名を知られ、民望ありといわれている。いかがかな?」
 袁術が答える。
「いや、たぶんお受けにはならないであろう。……皇帝擁立など外戚や宦官に任せて置けばよいのだ。しかし、外戚は衰え、宦官は、……そう、吾等が滅ぼしてしまったのだな。それに、皇帝を決めるのは天命であろう」

 大司馬劉虞と公孫伯珪が争っている。
 袁術は困惑した。
「どうしてこうなるのだ?」
 将の楽就が答えた。
「わかりませんな」
「なぜ大司馬どのと伯珪との争いが、吾と兄との争いになるのだ。豪傑の多くが兄に附いたからといって“紹は袁氏の子にあらず”など吾が言ったか?」
「将軍は冀州さまと仲たがいされていると、吾らは思っておりました」
「吾は、兄を妬んでいる。しかし、敬服すらしているのだぞ。できれば兄を皇帝にしたいぐらいだ」

 頼りにしていた孫堅が戦没した後、袁紹は曹操の軍と合わせて撃ってきた。
「曹孟徳には敵わない。……陳留・封丘・襄邑・太寿・寧陵・九江。ずいぶん追いかけられたなあ。固【こ】(とりで)を築いて何とか保てた。嗚呼……孫文台が生きておれば! 昔、董卓が乱をなしたとき、孟徳に凶問(わるいしらせ)を吾が伝えてやったのに」
 袁術はそう言った後、将の劉詳らに酒食を与えねぎらった。

 袁術は九江に拠った。
「おかしい。揚州刺史の陳元悌どのは病死だったと聞いております。なぜ、吾が殺したことになっているのでしょうか? 兄が揚州刺史に推した袁伯業どのは吾の従兄。どうして吾が追放したことになっているのですか? 吾が推した人は陳漢瑜の伯父どの。何ゆえ去られたのでしょう? 漢瑜とはおさないときから交遊していたのに……。馬太傅どのも病死であった。それすら吾のせいにされている」
 叔父の袁渙は馬太傅の持っていた節(184.32センチの竹でつくられており、犂牛の尾で三重に飾られている)を観ていた。しかし、黙ったまま。

「闕宣なるものが天子を自称したもようです」
 将の李豊が告げた。
 袁術は言う。
「十年ほど前に南陽で僭号した張曼成という者は三月で斬られた。かれに天命が無かったからだ。ちょうど黄巾の賊が乱をなした歳であった。そういえば、そのあとに、やはり黄巾賊のひとりが益州で天子を自称した。こちらは一月持たなかった。天命だよ、天子を決めるのは」

 長史の楊弘が問う。
「天命とはどのようにして下るのでしょうか?」
 袁術が答えた。
「符命だ」
「天子をあらわすものは何でございましょうか?」
「漢家では“伝国璽”と“斬蛇刀”」
「“伝国璽”?」
「うむ」
「天命はまだ漢家にあるのでしょうか?」
「わからぬ」

 ある日、孫堅の妻、呉氏は長子孫策のため、袁術に贈り物をした。
 袁術はその中のひとつに目を向ける。袋に包まれている函【かん】(はこ)。袁術はそれを開けた。
 ――碧玉の印?――。
 取りだして、よく見る。
 ――伝国璽!? まさか?――。

 ――孫文台が旧都の井から伝国璽を得た、というのは真であったのか?――。
 方四寸(9.216センチ)、上の紐のところに五龍が交わっており、一角が欠けている。
 ――秦始皇帝が命じ、丞相の李斯が篆文を書き、工の孫寿が藍田の玉に刻んだ。封禅の儀に使われたと思われる。秦の二世・三世に伝わり、項王から漢高祖、漢家から王莽、そして漢世祖へと――。
 そのようなことを思いながら、案【あん】(つくえ)の上に置いた伝国璽を眺めていた。

 袁術はさらに考えた。
 ――しかし、文台は忠烈を以って称えられていた。神器を得て漢家に返上しないことがあろうか? まあ、そのときは董卓がいたからしかたのないことであったであろう。……呉氏も知っているはずなのに。だいたい、この伝国璽はほんものなのか? ……確かめようがない――。
 袁術は群下の者に伝国璽を見せた。みな驚き、跪き伏し、稽首【けいしゅ】(頭を地につける)した。そして「万歳!」を叫んだ。

 袁術は悩んだ。
 ――真に天命が吾に下ったのか? あるいはこの伝国璽を漢家に還すべきなのか?――。
 このころ漢家の諸将の内で争いがおこり、漢の皇帝は東に蒙塵した。
「長安に地震があいついでおります。また、いたるところで大蝗【こう】(いなご)・大旱が起こり、旧都の宮室は焼かれ、群僚は飢えているということです」
 袁術は将の萇奴【ちょうど】の言うのを聞いていた。

 袁術は群下と大会し告げた。
「……諸君においては如何?」
 衆は敢えてこたえない。主簿の閻象【えんしょう】だけが進んで言った。
「……漢室は微といえど、いまだ殷紂の敝【やぶれ】に至っておりません」
 袁術は黙然とした。――そのとおりなのだ。しかし――。

 ついに、河内の張炯【ちょうけい】なるものが符命をもたらした。かれが言うには。
「井を浚【さら】っていたら白石を得ました」
 袁術は群下の者とともに符命を見た。上は円で下は方、丹書が有って石に著してある。その文にいう。
“徐州伯術に告げる。皇帝となれ”

 この日から群下は臣を称し、九江の門に建号門と名がつけられ、劉氏と馮氏は皇后となることを争った。
 将の韓胤が勧めた。
「すぐに帝位にお即きなられ、天下に露布されないのですか?」
 袁術が答えて言う。
「曹孟徳がなお在る。いまだ可といえない」
 ――それより兄だ! なぜ黙っているのだ! 兄はすでに三州を擁している。兄のほうがふさわしいのではないか?――。

 正月。臣下らは九江の南に三重の円い壇を築き、天子旌旗【てんしせいき】(升龍が描かれている)を建てた。また、柴を積み、軒懸【けんけん】した(吊り下げた)鐘・磬【けい】(“へ”の字の形の打楽器)を設け、五歳・三千斤(668.16キロ)の黒い雄牛十一頭を供えた。

 辛の日。袁術は玉駱【ぎょくろく】(天子の車)に乗った。左右に侍中二人。ひとりが伝国璽を佩【お】び、ひとりが鹿盧剣【ろくろけん】(柄に丸い環がある)を抱いている。玉駱は玉を以って飾られ、朱班の漆輪、繆龍【きゅうりゅう】の較(からむ龍を描いた車体?)、翠羽【すいう】の蓋(あおいかさ)をそなえ、左に旗、右に戟を斜に注し、六黒馬を駕していた(つけていた)。馬も黄金でかざられ、たてがみにきじの尾を挿している。

 ――思ったより動きにくいものだな――。
 袁術はそう思った。
 白玉が十二旒【りゅう】垂れている冕冠【べんかん】。前円後方、表は黒で裏は朱だ。袞服【こんふく】の上はくろい衣で、日・月・星辰など七章(かざり)を縫いこんである。下は絳裳【こうしょう】(濃い赤の腰から下の衣)で、黻【ふつ】(亞を二つに割ったような模様?)・黼【ふ】(斧)など五章。帯は素(白)で朱と緑を以って飾る。くつは赤い。

 臣下らが陪位し、郊祀の曲が歌われ、八歳の女童ら三百人が舞う。
 袁術は太常卿と博士祭酒に引かれ壇の陛(階段)を登り、天・地を祭った。
「皇帝臣術、敢えて玄牡(黒い雄牛)を用いて、昭かに皇皇后帝に告げます。……」
 このあと四涜【しとく】(黄河・長江・淮水・済水)・五岳(泰山・華山・霍山・恒山・嵩山)などを祭り、柴の上に牲【せい】(いけにえ)を加え、火をつけ、事をおえた。

 袁術は臣下を朝堂に集めた。かれは殿上に登り、漆牀に坐し、“詔”を下した。
「……号を建てて“仲”と称す。建安二年を以って……と改元する。九江太守を以って淮南尹とする。……」
 つぎに正朔・服色を議した。三公九卿二十七大夫八十一元士を置き、一后三夫人九嬪二十七御妻を定め、予州・徐州・揚州の刺史を任じ、十六郡国の太守と相を命じた。
 このあと、臣下らは賀を称え万歳を叫んだ。しかし、袁術の顔に喜色は無かった。
 ――兄よ、吾はあなたの代わりですか?――。

 袁術が倒れた。
 将の恵衢【けいく】が聞く。
「陛下のおかげんはどうなのだ?」
 将の梁綱が答える。
「だいぶよくなっておられる」
 将の陳紀も問う。
「いったいどうされたというのだ?」
「孫伯符の書を得られたあと、愁沮【しゅうそ】(うれい、くじける)され疾を発せられたらしい」
「かれが曹公のところへ、ひそかに使を遣わしたというのはほんとうだったのか!」
「陛下は常に“孫郎の如き子があれば、死んで何の恨みがあろうか”と述べられていたのに」

 呂布と戦った。しかし、陳珪の謀で楊奉らが叛き、袁術の軍は敗れた。
 袁術は親ら歩騎五千を率いて淮水にむかう。呂布の騎はみな淮水の北岸。呂布は大笑して還っていく。
 将の紀霊が進み出た。
「陛下、もうしわけありません。多くの兵を失ってしまいました」
「いいや、楊奉など信じた朕が愚かであった。それに相手は呂奉先だ。……しかし、陳漢瑜は、なぜこのような謀をした? かつて徐州を攻めたのは曹孟徳であろうに。朕ではない」

 袁術は陳の劉寵を滅ぼした。そのため曹操が南下。袁術の築城によって淮南だけは守りぬいた。しかし、主軍は撃破されてしまった。
 大将軍の張勲が甲を解き、縄で手を縛らせ、御前に跪く。
「臣、請うらくは死を以って罪に報い……」
 袁術は節で張勲の縄をほどいた。
「大敗したうえ、喬将軍ほか三将も斬られてしまいました」
「もうよい。こんどは曹孟徳。敵【かな】うはず無かったのだよ。しかし……孫伯符がいてくれたら、どうであったろうか?」

 ――あいつぐ大敗、蝗と旱。いまだ士民は凍餒【とうだい】(こごえ、うえる)している。それなのに、何ゆえ舒沛相は軍糧を悉く散じてしまったのであろう。すべてを飢民に給うことはなかったのに。朕までも蒲【ほ】(がま)と蛤【こう】(はまぐり)を食べなければいけないしまつだ。
朕のもとから孫郎が離れた。朱君理・呉丹陽・周公瑾・魯子敬も孫郎に附いた。叔父は呂奉先に捕まり、親戚の者も孟徳に降った。馮氏も殺された。
 朕の自立は誤りであったのか? 天命はなかったのか? 符命は嘘であったのか? 伝国璽は偽物なのか? 袁家に生まれたというだけで皇帝になれると思っていた朕が愚かであったのか? 
 兄は四州を領し、孟徳は漢家を擁している。天命を待っているのは誰だ?――。
 袁術は伝国璽を見ながら考えていた。

 袁術は従弟の袁胤に言う。
「ちょっと頼まれてくれないか?」
「はい? 何でございましょう」
「南陽の家に行って、ある物をとってきてほしい」
「ある物とは?」
「碧玉だ。確かあったはずだ。それも数個」
「? わかりました」

 将で多能な師宜官に問う。
「書のことについてお聞きしたい」
「何なりと」

 謀臣の李業に令した。
「篆刻のうまい工を探してくれ」
「御意」

 案の上に物が三個。
 それを見て女婿の黄猗【こうい】は恐惶した。
「伝国璽が三つ!?」
 袁術が言う。
「よくできているであろう。よく見てみろ」
 黄猗は手を震わせながら伝国璽に触る。
「なぜ、このようなことを?」
「戯れだ」
「……まったく同じですか?」
「いいや、文を変えてある。ひとつは“受命于天既寿且康”、もうひとつは“受命于天既寿永昌”、さらに“受天之命皇帝寿昌”だ」
「そのように読むのですか。……難しい。ほんものはどれなのですか?」
 袁術は微笑し答えない。

「孟玉どの! よう参られた。ささ、こちらへ」
 そう言う袁術に礼をして、徐は気の進まないかのように、ゆっくりと室に入った。そこに誰もいない。袁術が奥のほうに手を向けて言う。
「孟玉どのにお願いしたいことがあるのです」
 徐は一目見てわかった。
「伝国璽!」
 案の上に、函から出されて置いてあった。
「なぜ、孤【こ】(わたし)に?」
「あれを漢家のもとに還してほしいのです。奪回したと言って」
「……頼みたいことは他にあるのでしょう?」
「……吾の妹の嫁いだ楊家の命を助けるよう、曹公に伝えてください」
「……わかりました。やってみましょう」

 袁術の前に二人の男がいる。
「張嘉でございます」
「王休というものです」
「うむ。爾ら二人に任せたいことがある。これだ」
 袁術は案の上の函を指さし、言う。
「朕に何かあった後でよい、もし、真の天子が現れたとき、これを献上してくれ。朕はすぐにいなくなるであろう。しかし、真天子は――十年・二十年先になるかどうか、わからない――よいか?」
「お任せください」
 二人は伏して叩頭した。

 牀榻【しょうとう】(ベッド)によこになったままの袁術に、子の袁燿【えんよう】が見【まみ】えた。袁術は告げた。
「燿よ。朕はもう疲れた。……帝位を爾に伝えられない」
 袁燿は、そのことがわかっていたようで、黙ったまま稽首した。
「朕は兄に帝位を譲るつもりだ。もともと兄を越える何かをしたいと思っていた。しかし、まさか伝国璽を手にすると思わなかった」

 袁術は話をつづける。
「……伝国璽を贈られた兄が天命を授かるかどうか。……兄にその気はあるのかな? それより、伝国璽が至る前に朕が死ぬかもしれぬ。嗚呼……士人らが言動によって害されることのない王朝を創りたかったなあ。しかし、今、その士人らは傍観しているだけだ」

「朕に何か有った時、燿よ、爾は伝国璽を持って孫伯符に従え」
 袁燿が問う。
「陛下、伝国璽は三つあるのですか?」


あとがき

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