老人と少年(高汝蓮)

老人が行く。
琥珀色の馬に乗って。
広大な草原を。
老人はくろい帽子を被り、紫の袍を着て、黄紅の帯を締め、紫黒の貂毛の上衣をはおり、豹皮の弓袋を提げている。
老人の顔は鋭い目と深い皺、白い鬚を具えていた。
少年がいる。
ふたり。
大きいのと小さいの。兄弟であろう。
兄と思われるほうは薄黄、弟は灰白の馬に乗っている。
くろい仔山羊の皮の着て、弓矢を持っていた。先ほど獲たであろう獣が馬に積まれてある。
老人は少年らに近づき、馬を下り話しかけた。
「少年!」
「少年ではない!」
兄と思われる少年は弓矢を構え、にらみつけた。
老人は驚かず、目を細めて微笑し、少年の顔をよく見た。
目に火があり、顔に光がある。
老人はやさしく問う。
「少し尋ねたい」
少年は矢を老人に向けたまま、叫んだ。
「タタルの者か?」
「いいや、タタルではない。しかし、そのタタルに用があって来た。おまえこそタタルではないのか?」
「タタルは敵だ!」
少年は弦を引き絞った。
老人は畏れず、馬を引きさらに近づく。
小さい、弟と思われるもう一人のほうが怖がっている。
少年は何か思いついたらしく、力を抜き弓矢を下げた。
老人はにこやかにうなずく。
少年は馬にのったまま老人に近づき、しばらく老人を観た。
「ついてこい!」
そう言うと少年は弓矢を収め、馬を走らせた。
弟も慌てて、あとを追う。
老人はゆっくりとした動きで馬に乗り、馬を歩かせた。
しばらくして少年はすこし引き返し、老人と並び、声をかける。
「おまえの氏は、名はなんだ?」
「そのようなことを問われるのは久しいな。われはシュムルのオリラという者だ」
「シュムル? どこの部族だ?」
「キタン」
「キタン?」
少年は首をかしげた。
「知らんか?」
「知らん。いや、知っている!」
「そうか、知らんのか」
老人は笑った。
「笑うな。……どこから来た?」
「クス=オルド」
「どこだ、そこは?」
「チュイ河の辺にある」
「そこがキタンの地か?」
「いや、もともとサルタウル人がいた」
「サルタウル?」
「城市に居り、耕種をし、天神に事える民だ」
「キタンはサルタウルなのか?」
「違うな。キタンは穹廬に住み、畜牧をし、巫者に祓ってもらう」
「われらと同じだな」
少しの間、少年は黙った。三人は山に近づいている。少年は弟に鞭を振ってさしずした。
「先に行って母に告げよ。客が来たと」
弟は馬を趨らせ山に向かった。
「客?」
老人のことばに少年は答えず、言った。
「どこへ行くつもりだったのか?」
「シャンキン。われわれはそう呼んでいた。ここより東にある」
「知らんなあ」
「こんどはすなおだな」
「何をしに?」
「帰る」
「帰る? キタンは西に居るのであろう?」
「キタンの世居の地は東にあった」
少年はちょっと困ったらしく、頭を振った。
「どうしてキタンは東から西に移ったのか?」
「国を奪われた」
「はあ? 誰に?」
「ジュルチェンのワンギヤのアクタというものに」
「ジュルチェン? オンギン? アクタイ?」
「オンギン? アクタイ? えらい訛りだな。アクタはキタンの皇帝に叛き、虜にし、みずからアルタン皇帝と称した」
「アルタン皇帝!!」
少年は叫んだ。
「アルタン皇帝もわれらの敵だ!」
「ほう、そうなのか?」
「つまり、今のアルタンの統べる地はもともとキタンの地なのだな? ……ひとりの者に奪われるくらい、キタンの治める地は小さかったのか?」
「そんなことはないぞ。かつては百六十四万二千八百の兵を領し、京を五、府を六、州・軍・城を百五十有六、県を二百有九、部族を五十有二、属国を六十保っていた。東は海に至り、西はアルタイ山に及ぶ。北はルク河、南はパイコウに至る。幅員は万里あった」
老人は今までになく速くしゃべる。
「う?! 百…六十…万? 海? アルタイ山? ……いつのはなしだ、それは?」
「かれこれ五十二年前までののことかな」
「五十二年前!」
少年は老人の顔を凝視した。
深い皺と白い鬚。
少年は前を見た。山はすぐ近くにある。日もだいぶ傾いていた。
「ジュルチェン…アクタイはそんなに強かったのか?」
「ジュルチェンの兵がもし万に満つれば、敵すべからず、と言ってな」
「しかし、そんな大国がそんなかんたんに亡びるのか? それより、ひとりの英傑によってそんなことができるのか?」
山に入り、少し谷になったところを沿って、湖の辺に近づく。
ふたつの穹廬があった。
かたほうの穹廬の入口におとながひとり立っている。
少年の親、この家の主人かと思い、老人は馬を下りる。しかし、近づいてよく観ると、髪を結い上げ帯を締めた婦人であった。
婦人はにこやかな顔で客を迎える。
老人は手をくみあわせ一礼した。
婦人は少し驚いたようす。老人の衣装を見てさらに驚いている。しかし、すぐにうなずいて声をかけた。
「ようこそ」
老人は穹廬に招き入れられた。
なかに主人は、いない。少年を入れて男子五人、女子一人。このご婦人が主人か?
婦人は酒と肉で老人をもてなした。婦人は言う。
「あなたさまはどちらのバヤン(富者)でございましょうか?」
「いやいや、そういう者ではございません」
「お一人で旅をされているのですか?」
「いえ、ウイグルの商賈とともにまいりました。中途で人に会うために別れ、こちらのほうに」
子らが老人の持ってきた珍しいものを、あれこれと観たり触ったりしている。
「この子らの父はかつてバートル(勇者)と呼ばれておりました」
婦人は静かに言う。
「しかしタタルの者に毒殺されたのです」
「なるほど、敵ですか」
老人は少年の言っていた事を思いだした。
「キタンのことを何か話せ」
たいくつしたのか少年は話に割って入った。もう、夜になっている。
老人は満面の笑みをうかべ、語り始めた。
「……昔、神人あり。白馬に乗って、エリ河に浮かび、北に。
天女あり。青(灰白)牛の引く車に駕し、ネウラコ河に浮かび、東へ。
ムエ山に至りふたつの河は合流している。そこで、ふたりは相遇し夫婦となり、八子を生んだ。そののちかれらは分かれて八部となった……。
……われらのタイヅに至って遂に建国する。タイヅは東征・西討、枯れたるを折り、朽ちたるをくじくかの如く、東の海から西の流砂に至るまで、威を万里にのばした。世世、相伝えて九主二百年。高麗と通好し、西夏と兄弟、趙宋と父子となった」
「タイヅというのは、どういう者か?」
とつぜん少年が言った。
「氏・名をエリ=アボキ、またはリウ=イとおっしゃった。もとはチュリジという幼名であったそうだ」
「はあ?」
少年は眉を寄せた。
「わかりにくいかの?……しかしジュルチェンの蜂起で、キタンは土崩する」
「そこで、西に逃げたのだな?」
また、少年は話を中断した。老人は怒らず答える。
「それは違う。タツン……いや、タイシ=リンヤは援兵を求めて西に向かわれたのだ」
「タイシ=リンヤ?」
「われの主だ。タイヅの八代の子孫で、果断にして雄略のあるかたでいらっしゃった。
タイシさまとわれらは、初め二百人でキタンの皇帝の下を発したのだ。
沙漠を渉り、アルタイ山を越え、ベイティンを過ぎ、イリ河を渉って、ついにタジクの地に至った。そのころには、われらは七州十八部の万余の兵を得ていた」
いつしか老人の声は大きくなり、熱を帯びてきている。
「かつてタジクにキタンの皇女が降嫁されていた。タイシさまは、それをたよって兵を借りようとなさったのだ。しかし、そこにタジクという国はなく、群雄が割拠し相攻伐していた。
チュイ河の辺、バラサグン城に居るアフラシヤブ氏の王は国をまとめるために、タイシさまを皇帝に推戴した。かれらはタイシさまに“普き皇帝”と。われらも“天が祐ける”皇帝という尊号をたてまつった。われらは父祖〔の代〕から封爵され、われは特に……畏れ多い事だ……東平王に封じられた。
タイシさまはバラサグン城の近くにキタンの穹廬群を集め、クス=オルドとお名づけになった。
タイシさまは、過ぎる所の敵はこれに勝ち、降る者はこれを安んじられた。兵が行くところ万里、帰する者は数国にして、獲たらくだ・馬・牛・羊・財物は数えられないくらいだ。また賦税を薄くし、刑獄を省き、賢能の士を用いられた。
国力が充ちてきたところで、タイシさまは東征をお思いつかれた。そのとき、われが兵馬都元帥として七万騎を率い、ジュルチェン攻めに向かう。しかし、このとき牛・馬が多く死んだのでしかたなく還ってきた。タイシさまはわれを叱責することなく、……皇天順ならず。数(運)だ!とおっしゃっていた」
少年のほかの子らはすでに休んでいる。子を寝かしつけた婦人は少年とともに話を聞いていた。
「悲しいかな、タイシさまはあまりに早くに崩御されてしまった。皇太子のイレさまはまだ幼くしておられた。タイシさまはそのことを思い、皇后のタブエンさまに称制(摂政)を遺命されていた。
タブエンさまの性格は寛容で姿貎は端麗でいらっしゃった。また内治において法あって私することなかった。また、これもタイシさまの遺命として皇女プスワンさまを、われの長子ドルブに降嫁なさったのだ。プスワンさまの姿容は冠絶、詩を工みにし談論を善くされた。
イレさまは沈静で文武の才をお持ちであった。親政となれば号令は厳粛で民は安業を獲た。しかし、嗚呼、何と言う事であろうか! イレさまもわかくして崩御されてしまったのだ。
イレさまのふたりの皇子さま、ネリさまとチルクさまはまだ生まれたばかり。イレさまのお妃さまも皇子をお産みになってすぐに薨去された。イレさまの遺命は皇女プスワンさまによる称制であった。
プスワンさまは心ならず国母の代わりとなられ、さぞかしお困りであったであろう。しかし、みごとコラズム国の内乱とバルク城の反乱をお鎮めになった。
われはこのとき、すでに退いていた。代わりに長子ドルブが東平王に封じられ兵権をひきうけ、次子ブクジシャリが民政をあつかった」
老人の顔は誇らしげである。
「われの子らはよくプスワンさまを輔けた」
しかし、すぐに目を下に落とし、低い声で話し始める。
「どうしたことか。慢心したのか。ドルブは東征をくわだてた。プスワンさまは無益であると是とせず、ブクジシャリもグール王の動きが不穏である事から異とした。
しかしドルブは聞かなかった。またドルブは、何とした事か、プスワンさまとブクジシャリとの仲を疑い、東征軍をクス=オルドに向けた。そのようななか、ドルブは……殺され、もうすぐ親政をお始めになるはずだったネリさまも……。ドルブの兵は、責はブクジシャリとプスワンさまにあると考え、プスワンさまの大穹廬を囲んだ。百官や諸侯はわれを呼び、事を収めてくれるよう請うた。われはチルクさまを護り、大穹廬に向かった。大穹廬の入口にはプスワンさまが立っておられ、負傷したブクジシャリが跪いていた。
プスワンさまは両手を広げ叫んだ、妾を射よ!と。
兵らは、できなかった。
プスワンさまは、われの顔を見て……うなずかれた。
われは、矢を放った。
一矢でプスワンさまは倒れられ、ブクジシャリが抱きかかえた。ブクジシャリはわれのほうを向き、わたしも父の手で、と言った。われの矢はさきほどと同じように飛び、ブクジシャリを貫いた。
このことを見ていた兵らは、驚いたのか、思いを遂げたからか、静かになった。われはチルクさまに前に出御していただいた。兵・百官・諸侯はみな跪き、伏した。
われはプスワンさまをタイシさまと同じ陵墓に、ドルブとブクジシャリを庶人の墓地に葬った。チルクさまにはあらためて玉璽と尊号をたてまつり、皇帝位に即いていただいた。兵らの罪を問わなかった」
静かである。老人は顔を上げた。
少年は起きていた。明かりの火で目のなかの炎は燃え盛り、顔はいちだんと輝いている。婦人のほうが眠そうだ。
「われは、あとの事を百官や諸侯に任せ、旅に出た」
老人は話をつづけた。キタンのこと。ジュルチェンのこと。タタルのこと。ウイグル・キルギズ・カルルクのこと。コレズム国やセルチュク氏のことなど。また兵について、法についてなどを少年に教えた。
夜の闇を日が開けた。
老人は婦人に謝し、辞し、黎明から発した。少年がついてくる。
「キタンの故地に帰るのだな?」
「そうだ」
「おれが皇帝になったらキタン人を用いよう」
「おお、皇帝になるつもりか? たのもしいな」
しばらくして少年が言う。
「ここでまでだ。……また、ここに来るか?」
「いや、……わからぬ」
少年は向きを変えた。
老人は去っていく少年の姿を見ていた。
「いかん、だいじな事を忘れておった」
老人は叫んだ。
「少年! いや、バートルの子よ。名はなんと言う?」
少年は老人のほうに顔を向け、叫ぶ。
「テムジン!」
あとがき

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