喫茶店(ヒュウガミズキ)

ドアの開くからんからんという鐘の音がひびき、客が二人入ってきた。
喫茶店のマスターは、形式的な明るい声で、いらっしゃいと告げてから、入ってきた客の一人が、顔見知りのテレビ局のディレクターだとわかった。
「あれ、村田さんじゃないですか、めずらしい」
マスターは形式的ではない明るい声で声をかけてから、自らお盆にレモン水の入ったコップを二つ乗せて持ってきた。窓際のテーブルに腰掛けた二人の前にコップをおいた。マスターは、すばやく顔見知りの連れてきた客を品定めした。そして一瞬で、興味を失う。
もう一人の客は、おばさんだった。どこかで見たことのある顔ではあったから、おそらくはテレビにでもでている人なのだろう。幸いにして、近くにテレビ局があるためにときどき局の関係者が、芸能人を連れてきたりもするので、店の名前は業界ではまあ知られた方だし、その証拠が色紙という形で壁に幾つもぶら下がっているのをみれば一目瞭然だ。
でもおばさんは全く私の好みではない。
マスターは、単純にそう思って興味を失ったのである。
ディレクターはマスターの表情からそのことを理解したが、一応、お互いを紹介した。
「マスター、こちらは霊能者の阿嘉さん。こちらはこの店のマスターで三島さん。ここのコーヒーはなかなかうまくてね、ときどき業界の人を連れてくるんだ」
阿嘉良子は霊能者として有名なおばさんだ。埼玉かどっかにすんでいて、一応ふつうの家庭の主婦なのだが、何でも霊が見えると言うんで、有名になった人である。お笑い芸人にまねされたこともある。
「どうも、初めまして阿嘉でございます。以後お見知りおきを」
阿嘉は丁寧に挨拶をしたので、マスターも丁寧に挨拶を返した。そこらへんは、商売をしている人間として当然といえる。だが、ディレクターのみるところ、マスターの表情にさっきまでなかった興味の要素が浮かんでいるのが見て取れた。
「どこかで見たことのあるお顔だと思ったら、そうですか、あの阿嘉さんでしたか。これはこれは、ようこそいらっしゃいました」
「目立つ顔していますでしょ」
と阿嘉は自ら言って笑った。マスターは自分のせりふが少し礼を失していたかと思い、少しあわてていった。
「いやいやそんなことは決して…」
決して、で止めたためによけいフォローにならなかった。
「今日は水曜の特番でね、夏でもあるし霊の特集でもしようかと思ってね、お呼びしたわけ」
ディレクターはそう言った。
「もう撮りは終わったわけですか?」
「ああ。あ、えーと俺は、アイスコーヒーね。阿嘉さんは何にします?」
阿嘉はアイスコーヒーと答えた。
「じゃ、アイスコーヒー二つ、と、そうだ、なにかサンドイッチでもつけてくれない。俺、今日はこの後もあるんでね、少し腹でもこしらえておかなくちゃな」
マスターは、わかりました、とつぶやいて奥に引っ込んだ。
「この店は、あまり広くはないんですが、コーヒーがおいしくてですね、ときどき飲みにくるんですよ、あ、これはさっき言いましたか。あと、近いというのも便利でしてね」
などとディレクターが取り留めもないことをしゃべっていると、奥の方でがちゃんという皿でも割れる様な音がした。つづいて、ごめんなさい大事なお皿を割ってしまいました、お許しください。という若い女性の声がした。やたらとお許しくださいを連発している。
「あれ、マスター誰か雇ったのかな? いやね、この店はマスターがずっと一人でやっていたものだから…、マスター?」
奥からマスターがでてきた。
「どうかしたのか、女の子の声が聞こえたけど、誰かバイトで雇ったの?」
マスターは顔をほころばせた。
「いや、まあね」
「あれー? マスターひょっとして、いい娘でもできたのかい?」
「いやあそんなんじゃないんだけどねー」
マスターは顔を赤らめた。
「なんだよマスター、最近来なかったらいつの間に見つけたんだ。隅に置けないじゃないかマスターも。どれ、どんな娘か紹介してくれよ、かわいい子だったらスカウトしてもいいぜ」
マスターはやたらとテレながらも、少しおもしろそうな表情をした。
「そうだな、阿嘉さんも来ていらっしゃることだし、紹介するか」とつぶやいて、店の奥の方を振り返った。
「菊美ちゃーん、ちょっとお店まででておいでよ」
よろしいんですかー? という声が聞こえる。
「いいから出ておいで、知り合いの方を紹介するから」
はーい、わかりました、と声がした。奥から、エプロンをはずしながら若い女性が出てきた。エプロンをすばやく且つきちんとたたんで、ぺこっと頭を下げた。マスターが紹介すると、少し照れたような表情のその娘は、えらくかわいらしい容貌をしていて、
「はじめまして菊美といいます、以後、お見知りおきを」
とかわいらしい声で丁寧に挨拶をした。
ディレクターはマスターに負けず劣らず表情を崩していた。鼻の下が伸びに伸びきって床を貫く勢いだ。
かわいい子じゃないか、とにやけ顔のディレクターが伸びきった鼻の下を元に戻しながら言おうとしたその瞬間、とびきりでかい金切り声が店内をふるわせた。
金切り声の主は、霊能者の阿嘉さんだった。
それは、金切り声とはかくあるべきものとハウ・ツー本にでも記されてそうな若い女性の発する声ではなく、なんというか地獄門が開かれたのを知ったダンテの叫び声とでも言うべき、地の底をふるわすようなすごい声だった。文字にすれば当然、きゃあああ、ではなく、ぎゃあああ、である。
驚いたのは、マスターと菊美という名のかわいい店員とディレクターの3人だった。
「ど、どうしたんですか阿嘉さん」
ディレクターが問うまでもなく、阿嘉は、指を菊美の方に向けてふるえていた。
「そ、そこに霊がいます」
ディレクターは阿嘉の指さした方を見た。マスターと菊美が突っ起っている。
「ど、どこですか」
「そこです。マスターの隣。若い女性です。エプロンのようなものを手に持って、はにかんでいます」
ディレクターは、再度、黙って指さすほうを見て、次に阿嘉の方を見た。
「それは、菊美さんじゃないですか。何言ってるんです? 阿嘉さん」
このおばさんもとうとうおかしくなったか、と思った。
「なにか思いを残して死んだのでしょう。おそらくずっと昔の人です。江戸時代くらいの…。店の四方に塩を積んで、お祈りをあげてください。このままでは金銭的な霊障が現れるでしょう」
阿嘉はバッグから数珠を取り出し両手をあわすと、なにかを口の中でつぶやき始めた。祈りの言葉か、お経でもあげているようである。
「ちょっと阿嘉さん、いったいどうしたんですか」
ディレクターは困って、マスターの方を振り向いた。マスターや菊美さんが気味悪がっているかと思ったら、マスターは感心したようにうなずき、菊美さんは両手のひらで頬を挟み、照れたようにいやいやと体を動かしていた。マスターがつぶやいた。
「いやあ、さすが阿嘉さんだ。わかるものですなー。お見事です」
「へ?」
「いやね、言おうと思ったんだけどね、菊美ちゃん、幽霊なんだ。な」マスターは菊美の方を見た。菊美は、きゃっと言って顔を手のひらで覆った。妙にかわいらしい仕種だとディレクターは思った。
「かわいいだろ、こいつ今時珍しいほど照れ屋なんだ。なんていうかさ、よく気を使うし、また気がつくし、妙なこと言って威張る今頃の娘とは大違いでさ、へへ、なんて言うかかわいくって、ついこの店に置いているんだよ、なー菊美ちゃん」
「もう、マスターったらやめてください」
「からかうとまたこれがかわいくってねー」
「もお、しらないっ」
菊美は顔を覆ったまま、店の奥へ走り去った。マスターが笑い声をあげる。
到底、幽霊には見えない菊美の後ろ姿を見て(御丁寧に足の存在を確認して)から、
「ゆ、幽霊って、マスター…。何もないのか、その霊障とか言うのは」
「それなんだけどさ、いま阿嘉さんが言ったろ、金銭的な霊障があるって。正解なんだよ。あの娘さ、一日一回必ず皿を一枚だけ割るんだ」
「もしかして、さっきの…?」
「そ」
「一日一枚じゃ、結構金がかかるんじゃないのか…?」
ディレクターは動揺しながらも、そう訪ねた。
「でもさ、皿を割った後の謝る仕種がさ、これまたかわいくって、もう皿の一枚や二枚なんて、文句いってられんよ」
いやあもう、まいったなこりゃ、などとつぶやく。
マスターの顔は中華鍋の中のラードのようにだらしなくとろけてしまった。
横では、阿嘉さんが椅子の上に正座してお祈りを続けている。ディレクターは、脳の視床下部のあたりに痛みを覚えながら、訊ねた。もうここまでくれば最後の謎を解きあかすかのごとく。
「なんで、皿を割るんだ?」
マスターは、ふにゃふにゃの表情で、答えた。
「毎日皿を数える癖があるんだとさ。最初は、俺もびっくりしたんだけどさ、いまじゃもう、何枚でも数えてくださいってな、いや、ははは。もう幽霊だのなんだのって言ってられません」
「皿を数えるのはわかったが、それをどうして割るんだ?」
マスターは、笑顔でうなずいて説明した。
「それなんだがな、見ているといつも、10枚まで数えたところで、10枚あるーって叫んで取り落としてしまうんだ。よっぽど昔のことがひびいてるんだろうな」
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