自動車学校の日々(ヒュウガミズキ)

「あれ、伊藤じゃないか」
宜野湾自動車学校の入口をくぐって3歩あるいたとき、声がして伊藤は振り向いた。
「何だ、おまえも来てるのか。そうか、バイクの免許を取るって言っていたな」
待合い室の椅子に座ったまま木本はうなずいた。
「まあね、月曜日からだけど。伊藤はいつから来ているんだ」
「先週の金曜日から」伊藤は、そう言うと、同じ椅子に座り、背中の鞄をおろして中からカードを取りだした。「まだ、第1段階だが」
「そうか。俺はまあ車の方は免許持ってるから、少しは楽だけどな。オートマ?」
「いや一応マニュアル免許。今日は何時間目からなんだ?」
「次の時間。あと、10分くらいかな」
そうか、とつぶやいて、伊藤は穴の開いた安物っぽい革張り長椅子の背もたれにもたれ掛かる。顔を上げて、壁に台をとりつけてその上に乗せられているテレビを見た。画面には、ワイドショーが流れている。と、軽い音がして、画面の上に文字が現れた。
《臨時ニュース速報》
「おや、何かあったのかな」
伊藤の声に木本もみる。少しして画面に文字が次々と現れ出す。
《本日、中国外交部は先の米国の対中国経済制裁に対し、駐米中国大使を引き上げるとの声明を発表》
「なんだ、大したニュースでもないな」
「まあな。あれだろ、地下核実験とか人権問題とかで、ここずーっと騒いでいたからな。そこら辺もからんでるんだろ? アメリカのやりそうなことだ」
伊藤は、論評した。彼は国際政治などに結構詳しい。
「そんなこともあったっけ」
木本は国際政治には全く興味を持たない。
「そろそろ、行かないとまずいんじゃないか?」
木本は時計をみると立ち上がり、「おっと。それじゃ行ってくるわ」と言い残し、構内のガレージの方へ歩いていった。二輪はガレージでオートバイを引っぱり出してこなくてはならないので、早めに行った方がよいのである。
「さてと俺もそろそろ行くかな」
伊藤は立ち上がった。彼は、学課の方である。学課は建物の3階で行われていた。二人が控えのフロアからいなくなるころ、講習の時間が近づいて、他の生徒たちも三々五々それぞれの目的に向かって移動しだした。後には、次の時間ではない生徒か、もう今日の日程は終了した生徒たちがたむろしているだけとなった。
1週間ほど経った。伊藤は、毎日通い詰めで第2段階の終わり近くになり、そろそろ技能も難しくなり、教官も容赦しなくなって、不満とストレスで疲れる毎日である。木本は、伊藤ほど熱心に通ってはいないのか、第2段階をぼちぼち行っている。二人とも大学生で、まだ夏休み前なために、授業に出てて自練にはこれない日があるのだが、木本は、それ以外にも趣味とかバイトとかその他でいろいろ忙しそうである。
伊藤が大きな控え室のフロアの、皮長椅子で、腕が汗で引っ付くのを気にしながら、テレビを見ていると木本が現れた。彼は声をかけると、伊藤の横に座る。
「どこまで行った?」
「第2段階の見極めが今日だ。うまくいけば、来週には第3段階の途中までは行けそうだな。その次の週に仮免を受けて、第4段階。順調に行けば、夏休みの生徒で混雑する前に卒業できそうだ」沖縄じゃ、高校3年の時に免許を取りに来るものが多いので、結構混雑するのである。
「おー、結構がんばってるねー。俺なんか、たまにしかこねえからいっこうに技能が良くなんねーんだよ。教官にも嫌味を言われ始めてきたからなー」
「担当教官って誰?」
「宮城先生。だけど、バイクはいつも担当の先生が受け持つんじゃないんだよ。大体空いている先生が指導するみたいなんだよな。一昨日なんか、伊是名ってやつでさー、結構なんやかんやと言われたぜ」
「伊是名先生は口が悪いからな。あの人は4輪が主な担当なんだけど、たまに暇なときバイクを教えているみたいだな。両方出来るんだろう」
「教官って、皆二輪も四輪も乗れないと行けないんじゃないのか?」
伊藤は首を傾げた。
「さあ、聴いたことはないが…。でも、うちの田舎の方の自動車学校は、四輪だけだったけどな」
「九州の方と沖縄じゃ違うとか」
「そういうものでもないだろう」
伊藤は、そう言いつつ壁のテレビの方をみた。
「なにか、事件でもあったのか?」
木本がテレビを見上げながら聴いた。
「ほら、例の中国とアメリカの問題だよ。関係悪化だとさ。お前テレビみてないのか? ここ数日はこのニュースを盛んにしてるぜ」
「俺、いろいろと忙しいからさ」
「ニュースみる暇もないほど、女と遊んでるのかよ」
「わるい?」
いや、べつにいいけど、と伊藤はテレビの方をみながら答える。木本もテレビの画面をみた。昼下がりのワイドショーなのに、芸能ニュースではなくて、米中問題を流していた。タレント並みにテレビ出演をする国際政治学者が何かしゃべっている。
『今こそ、日本は、関係改善のお膳立てをするいい機会なのですよ。地理的にもちょうど両国の間にあるし、ここで、話し合いの場を提供すれば、一躍日本の国際的な信用が高まるというものです。また、台湾をいかに扱うかも、重要な要素でしょう。内閣の手腕の見せ所ですが、あの政権じゃ心許ないですね』
「なんだ、今こそとか何とかいいながら、一方では政府を非難しとるじゃないか。いい加減なやつだな」
「評論家っていうのは所詮そんなもんだろう。発言するのに責任はないわけだから」
「どうでもいいよ。それよりも、と。早くバイクの免許をとらんと、彼女が乗せろ乗せろうるさくてかなわんよ。リゾート連れてけ、とか。離島に連れてけ、とか。何で女ってああも要求が多いんかねー」
伊藤はちらっと横目でみて、
「それ、お前の女が例外なんじゃないのか。それとも、お前が女に甘い顔してるからか、どうせそんなところだろう。でなきゃ、こんな不真面目に二輪の免許を取りに来る奴おらんぞ」
「どこが、不真面目なんだ? 俺は不正をしようとはしてないぞ。ちゃんと、自動車学校卒業して、免許を取って、」
「その自動車学校を不真面目にきとるんじゃないか。ふつうだったら、もっと真面目に毎日、とまでは行かなくても時間をとって来るものだろう? 大体バイクは4輪と違って、趣味と技術の要素が強いんだから、なおさらじゃないかと思うがね」
「そうかなー?」
「どうせ、彼女にとれって言われて来る気になったんだろうが」
木本はぱっと表情を輝かせた。
「よくわかるね、実はそうなんだ」
「実もくそもあろうか」
いやー、もうあいつったらよー、しつこくって…、などと口にしている木本を無視して、伊藤はテレビ画面を見直した。画面では、ワシントン駐在のテレビ局特派員がしゃべっていた。
『これについて、アメリカ政府広報部の報道官は、今朝の記者会見で、大統領は断固たる対応をすると声明し、一歩も引く構えを見せてはおらず…』
第3段階も順調に進んでいる伊藤に対し、木本はちっとも進んでいる様子ではなかった。相変わらず、一週間に数回来ているだけなので、技能が身に付かないのである。
伊藤が、午後2時半になって、宜野湾自動車学校に来たとき、木本は既に来ていた。すでに講習を受けていたのである。
「おや、今日は真面目だな。彼女にもっと真面目になれ、とでも言われたか?」
「ああ、伊藤か。ちがうよ、時間が余ったんで、午前中から来てやってるんだ」
「なかなか周章な心がけだな。で、少しはうまくなったのかい」
木本は顔をしかめた。
「もうさんざんだよ、今日なんかさ、スラロームの時のバイクの倒し方が甘いって言われてさ、教官がバイクにのっかって俺はタンデムに乗せられてさ、スラロームするんだよ。先生のやり方を見てみろって言うわけさ」
「で、みてわかったのか?」
「見て出来るもんだったら、とっくに出来てるよ。それにスラロームで、右に左に揺れてるのに見れるかっての。気分が悪くなったぜ」
スラロームとは、コーンポールにあたらないように蛇行して進む技能だ。オートバイをいかに体重をかけて倒さないといけないか、それを練習するわけだが、バイクは曲がるとき体重で倒すのが基本だから、これが出来ないようじゃどうしようもない。
「そんなことで、いつになったら終わるんだか」
「余計なお世話だよ。それよりお前はどうなんだ?」
「来週の水曜日あたりに仮免を受けようかと思っている」仮免許の実技試験は、水曜日か土曜日しか行っていない。翌日は土曜日だが、いきなりは自信がなかった。もっとも今日の第3段階終了がうまく行くかの問題が先だが。
「へー、そうですか」
木本は、ちっとも感心しない声で反応した。伊藤に嫌味を言われておもしろくないのだろうが、午前からの講習で疲れているのだろう。皮長椅子にもたれ掛かるように座っている。汗で引っ付くのも構わない様子である。
『アメリカ政府の、中国人不法滞在者について、行動を制限し、就業許可証の取り消しを行うとの発表に対し、中国政府は、さきほど外交部の呉広報官が記者会見でアメリカ国関係の商社員、外交官、報道関係各社の国外追放を発表し、また、首都北京に戒厳令を敷くことを決定しました。さらに自由化運動活動家の拘束を行っているものと見られます。また、今朝の台湾政府の行った中立宣言についても…、』
「なんか、ここずーっとアメリカと中国の関係ばっかりだな。バラエティ番組も潰れるし」
「そりゃあ、潰れるだろう。ここまで急に関係悪化になるとは思わなかったからな。米軍も臨戦態勢に入っているみたいだし」
「ふーん、そりゃ知らなかった…」
木本がそう返事した瞬間に、タイミング良く地響きの様な轟音が響いた。音は、移動しているのか、聞こえてくる方向が変わり、やがて、ばりばりというものすごい音に変わった。
「まただ、今朝からときどき聞こえるんだよ。もう、うるさくてうるさくて」木本の声は轟音にかき消されてあまり通らなかった。伊藤は、音が少しおさまったところで説明をする。
「ギャラクシーの輸送部隊がそこの普天間基地に来てるんだよ。普段はあまり来ないんだがな、嘉手納と違って。きのうは海軍の戦闘機も来てたしな」
「良く知ってるな。見てたのか?」
「音だよ。飛行機の種類は音である程度推測がつく」
「ほんとかよ」
「嘉手納基地の見える丘で、見物するとわかるよ。行ったことあるだろう」
「彼女を連れて1・2回くらいはあるが、あんまりいかないな。瀬長島で那覇空港の夜景を見た方がいいもんな、彼女はそっちの方を喜ぶんだ。まあ嘉手納カーニバルはおもしろいから行くけど」
嘉手納カーニバルはアメリカ独立記念日の前後に行われる基地祭である。この日ばかりは、住民市民も基地の中の一定の所までは入れる。ちなみに瀬長島は、那覇空港の滑走路の延長線上にある島だ。橋が架かっていて陸続きになっている。
「基地の中って広いよな。知ってるか、嘉手納基地の中の信号は、アメリカみたいに電線からぶら下がってるんだぜ」
「全部じゃないけどな」
「何だ知ってるのか」
『この事態に政府は、今朝の山室官房長官の記者会見で、話し合いによる平和的解決が望ましいと発表。そのためのお膳立てをしてもよいと述べています。なお、高山首相は午後の閣議で、この事態に対する対応策を協議することになっており、あらためて政府の対応の遅さが目に付きます。野党も両院協議会でその事について、徹底して追求する構えで、夏の参議院選挙を狙った対応策を…』
テレビの音声が室内に響いている。
米軍の機動部隊が、日本近海に集結し、横須賀と佐世保に米原子力空母が同時入港するという異例の事態となり、日本の各米軍基地、自衛隊基地も緊迫した雰囲気になっていた。もはや、夏の参院選どころではなく、野党などは、やれ日本が戦争に巻き込まれる、いそいで外交官を両国に派遣して説得しろ、などというのはおとなしい方で、両国に対し経済封鎖しろ、という変なものから、安保条約を破棄しろ、中立宣言をしろ、終いには都市の市民を地方に疎開させろ、米軍基地を接収しろ、というものまで出る始末である。
沖縄でも連日、「平和市民なんとかかんとか」という名前の市民団体が、各基地に押し掛けてシュプレヒコールをする騒ぎである。そんな中、伊藤は無事一発で仮免を通過し、木本は第2段階を終えた。なんとかスラロームもできてきたようである。
第4段階に入って、外で練習してきた伊藤は、ややうんざりしたような表情で、控えフロアに戻ってきた。木本が、長椅子に座って片手をあげる。
「よう、おかえり。路上を走るのはどうだい」
「もう、大変だったぞ。デモ隊で通行が邪魔されるし、警官に誘導されてもこっちは、素人なんだから。疲れちまったぜ」
「そう。それは大変だったね」木本はやや曖昧に応対した。そもそもそういう意味で訊ねたのではなかったのだ。
「まったく、ここでデモ行進やシュプレヒコールをあげたら、戦争が回避できるとでも思っているのかよ。バカと違うか?」
「おい、伊藤。落ちつけよ」
木本がらしくなく取りなそうとする。他にも控えフロアには人がかなりいるので、はばかったのである。だが、伊藤は落ちつかなかった。
「たくよ。今は安全だから騒ぐんだよ。いざ開戦して見ろ、みんな基地の周りから逃げるに決まってる」
そりゃそうだろう。と木本は思った。誰もすき好んで危険なところには行かないだろう。それに安全なうちに騒がないと意味がないであろう。しかし、伊藤の言っている意味は少し違った。戦争を本気で止めたいならば、中国にでもアメリカにでも行って、説得するくらいの真剣さで考えるべきだ。デモ行進をしたくらいで、満足するな、というのである。
「もう真面目なんだから」
木本は苦笑した。だが、事態が深刻化しているのは、普段国際情勢に全く興味の無い木本でも理解できた。
テレビのニュースには、時間をつぶしている自練の生徒たちも見入っていた。みんな普段は木本と似たり寄ったりの人たちである。その集団の1人が、「少し静かにしてくれ」と言うのが聞こえた。伊藤も木本もそっちの方を見る。テレビのニュースが聞こえた。
『中国政府は北京時間で正午、声明を発表し、アメリカ政府の一連の態度に関して、中国政府は断固たる処置をとる。アメリカ大陸に対して直接攻撃も可能であるとの声明を発表。これに対し、アメリカ政府も機動艦隊および潜水艦隊の配置は既に整い、中国政府の出方次第では実力行使も辞さない、と発表しました』
このニュースを聞いたとき、フロアは異様な静まりかたをした。木本が静けさの中で、ぽつんとつぶやいた。
「攻撃って、核ミサイルだろうか…」
伊藤も小さな声で答える。
「だろうな。沖縄にも飛んで来るんじゃないかな。米軍基地の最大のものがあるから」
そんな、と室内の誰かがつぶやいた。伊藤の声が聞こえたらしい。
テレビの緊張したアナウンサーの声が響きわたる。
『政府はまだ正式なコメントを発表しておりませんが、先程国会から出てきました松井文部大臣は、正式な報告は受けていないが、本当だとしたら、事態は一刻の猶予もない。こうなったら国連の安保理事会で協議して貰うように両国政府に伝えるべきじゃないかだろうか、とのべ、閣僚の苦悩をにじませていました』
冗談じゃ無いぞ、俺は、ここで終わるわけには行かないんだ、と1人が立ち上がって叫び、田舎に帰るぞ、とさらに叫んだ。伊藤や木本と同じ大学生のようである。おそらく本土出身なのだろう。
その学生が、冗談じゃないとつぶやきながら、フロアを出てってしまうと、次々と生徒たちが外に出始めた。だんだん騒ぎが大きくなって行く。
「こりゃあ、暴動になるかもしれんな」
伊藤が今度はのんびりとつぶやいた。鼻くそでもほじりかねないのんびりさである。
「なあ伊藤。戦争になるまで後どれくらいかな。もうあまり時間がないのだろうか」
木本がやや不安げに訊ねてきた。伊藤は、わざとらしく肩をすくめた。
「まだ、戦争にはならんよ。両国とも脅し文句を言っているだけで、まだ、さほど追いつめられてはいない。今後の状況次第だが、今は、まだ外交の一部分に過ぎないよ」
「あんな事を言っててもか?」
「まあな。外交の修羅場をくぐってきた国には良くあることさ。脅し文句もまだ言ううちは大丈夫なんだよ。言わなくなったら、かなりやばいだろうけど」
「言わなくなるまで後どれくらいか、わかるか」
木本は真剣な表情である。
「さあ。でも、そんなに気にするなよ、まだ大丈夫さ」
「だけどよ、戦争になったら、核ミサイルとか使うんだろう? 水爆だの原爆だの。そうなったらおしまいじゃねえか」
「おしまいだろうねえ」
伊藤はのんびりと答える。
「そんな、俺はまだバイクの免許も取ってないし、彼女を乗せてツーリングにも行ってないんだぞ」
伊藤は、木本の顔を見た。木本はあくまで真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。
ほとんどの生徒がいなくなり、教官と一部の生徒と事務員だけがぽつんと残された。
米国と中国は、対立を深めながらも、まだ対話の可能性を模索しているかのようだったが、両国が相手国の資産凍結を決定し、台湾近海でフィリピンの漁船が中国海軍の艦船に銃撃されて沈没するという事件が起こり、ロシアは、中国国境沿いに軍隊を派遣し、台湾は全土が戒厳令下におかれ、半ば傍観していたヨーロッパも、国連での対話を要請する書簡を両国に送り、外交官交渉を積極的に始めていた。日本は、この時点でもどうしていいかわからず、ただ、毎日のように、平和的解決を望むとの声明を発表するにとどまっていた。
自動車学校の講習もあまり進まなくなってしまった。教官の中には来なくなったものもいるし、路上はデモ隊やら群衆やらで大騒ぎの様相を見せており、さすがにまだ打ち壊しみたいな事は起こっていなかったが、先走りの自殺者が出始め、殺人事件も頻発し始めていた。おかしいのは、こういう事態になっても、自動車学校に来る生徒が意外といるということであった。木本と同じように、今のうちに免許を取っておきたいというのであろう。
嘉手納町や沖縄市付近の住民は、ヤンバルの方へと避難を始め、街はがらんとする一方、那覇市では道路を群衆が埋め尽くしてのお祭り騒ぎ、国際通りなどは、カチャーシーを踊る集団で、身動きできなくなるというくらいもう何がなんだかわからなくなっていた。
伊藤は、時間を食ったもののなんとか、卒検まぎわまで来た。教官もこの事態だからと、あまりうるさくは言わなくなったのである。木本の方も、何とかスラロームもうまくなり、後は試験だけというところまで行った。
普段ほどではないものの、相変わらず人がたむろしている自動車学校の控えフロアで、二人は、椅子に座っていた。
「嘉手納基地が核攻撃を受けたらどうなるかな」
「そうだな、規模にもよるが、1メガトンだと基地のほとんどと嘉手納町は消滅して、北谷町と沖縄市が壊滅するかな」
「ここら辺にまで影響するかな」
「そうだねぇ、キャンプ瑞慶覧の南北にちょっとした丘があるから、そこで熱線や衝撃波は止まるだろうから、かなりの被害は抑えられるだろう。でも、爆風くらいはこの辺りまで来るかもな。お前んとこは、琉大の東口のそばだから、キャンパスに遮られて直接には被害を受けにくいだろう」
木本は少し顔を輝かした。
「本当か?」
「しかし、それは嘉手納基地だったらの場合だ。そこの普天間基地だったら、琉大は斜面の上にあるし、もろに被爆するだろうな。お前んちのある東口がここから見て、琉大の反対側にあるといっても、もたないだろう。規模によったら火球に包み込まれて炎上してしまうかも知れない」
「そ、そうか」
「だが、もっと問題なのは、即死せずに生き残ることだろうな。怪我とか火傷でもした日にゃ大変だろう。医者も病院も駄目になってるだろうし、そのうち放射能で体がどんどんむしばまれて、食い物もなく、病気も蔓延し、体の弱いものから次々と死んでいく…」
「わかったわかった、もういいよ」
木本は身震いをした。伊藤は平然としている。
「あーあ、ソビエトが無くなって、もう核戦争なんか起こらないと思っていたのになー。何も中国と戦争しなくてもよかろうもんに。せめて、俺が免許取るまでは待っていてくれよなー。できれば、バイクを買うまで待っていて欲しい。でももっとできれば、彼女とツーリングをし終わるまで待って欲しいところだ。でもでももっともっと待っていてくれれば…」
「うるせえぞ、静かにしろよ。ニュースが聞こえねえじゃねえか」
ニュースを見ていた自動車学校の生徒の1人でやや年輩のおじさんが怒鳴った。木本もむっとして、文句を言う。
「うるせえな。おっさんは、黙ってろよ」
「なんだとー?」
「なんだとはなんだ」
「なんだとはなんだとはなんだ」
「なんだとはなんだとはなんだとは、なんだ? ええと…。ええい、おっさんはよ、いい加減長生きしてきたんだから、いさぎよく死ねばいいだろうがよ。俺らはまだ若いんだぞ。彼女もいてこれからだっつーのに」
「ふざけるな、わしだってまだ30代独身だ」
二人は、レベルの低い喧嘩を始めた。伊藤に止める気は更々なかった。
予定は国際情勢の影響をもろに受けて、大きく遅れてしまった。夏休みの時期に突入し、本来ならば、高校生が山のようにやってきて、大変な騒ぎになっているところだろうが、あいにくと高校生は来ない。そのかわり、講習が途中まで来ている大学生らは、核戦争勃発までに何とか免許を取ろうと躍起になっていた。教官の中には来なくなったものもかなりいたものの、半分以上は、真面目に仕事をしていた。
自動車学校に限らず、有りとあらゆる職業の人が、仕事を放棄しなかった。そこら辺は、真面目なのか、あきらめているのか、何も考えてないのか、ともかくもそういう人たちのおかげで社会は崩壊していなかった。
卒業検定試験は、混乱を避けて、琉大の近くまで移動して、そこから東海岸へ向けて行われた。東海岸は比較的人家も少なく、米軍の基地も少ないので、やりやすいだろうという配慮だった。
琉大には、左翼学生十数人が、主張を通せるときが来たとばかりに、「今こそこのキャンパスに学生の解放区を」などと何十年も前の学生のようなことを叫んでいるのを聞いて、伊藤などは思わず吹き出した。
演説をぶっている左翼学生を後目に、暇つぶしに来た大学生たちはお祭り騒ぎを行い、教授の中には今のうちに研究論文を仕上げようとしているものもいた。
「伊藤、どうしたんだこんな所で」
木本の声がして、伊藤は振り向いた。琉大東口のすぐそばである。木本の下宿しているアパートの近くでもある。
「卒業検定だよ。自練の近くは大騒ぎなのでこの辺りまで来てから試験を行うことにしたんだ」
「そうかー、バイクは教習所構内でするからな」
「もうやったのか?」
伊藤は、訊ねた。木本は、ちょっとつまったが、正直に答えた。
「実は駄目だったんだよ。最初のブレーキングの試験でいきなり失敗してね、止まるはずのラインを越えちゃって、『はい戻って』っていわれてそれで終わりさ。情けないやら恥ずかしいやらでもう。変なんだよな。きちんとブレーキをかけたのにとまらなかったんだ。バイクがおかしいんじゃないかって疑っているんだけどねー」
「それは言わない方がお前のためだぞ」
「わかってるよ。ばかにされそうだもん」
木本はため息を付いた。
「それよりお前、何してるんだここで」
「キャンパスでお祭り騒ぎをしているからさ。俺も参加しようかなって思ってさ。おもしろそうじゃないか」
「ひとりでか? 彼女はどうした。一緒じゃないのか?」別に毎日毎時間、彼女と一緒にいるものでもないだろうが、と内心思ったものの、成りゆきで聴いた。
木本は表情を曇らせた。
「…喧嘩したんだよ。おととい」
「喧嘩? 喧嘩ってなんでまた」
「…まあ、大したことないんだけど」
木本はそれ以上説明する気はなかったようで、黙ってしまった。伊藤もそれ以上訊ねる気もないし、他人の色恋沙汰にも興味がなかったので、黙った。
「しかし、大騒ぎだな」
伊藤はキャンパスを振り返ってつぶやいた。手拍子やかけ声、指笛の音などが門の外まで響いてくる。
「まあ明日にでも世界が終わるって言うのならね、それも仕方のないことかと思うけど…」
木本は、物事を悟ったような口調で論評し、つづいて盛大なため息を付いた。結局の所、彼にとっては米中の関係改善より、彼女との関係修復の方が重大なことなのであろう。
「さて、そろそろおれの番か。何とか一発で合格したいな。長引くのは面倒だし、金ももったいない」
検定料はその度ごとに払わなくてはならないし、検定におちたら、講習を余分に受けなくてはならない。またその分も払わなくちゃならないのだから、もったいない話である。
「だよなー、世界が滅びる前にせめて自動車免許だけはとっとかないとなー」
木本が深刻につぶやく。
「別にそういう意味で言ったのではないのだがな」
伊藤もやや深刻につぶやいた。
「そういう意味って、どういう?」
「世界滅亡って事だよ」
木本は意味を測りかねて、首を傾げた。
「つまり、世界が滅びようがどうでもいいって事か?」
「誰もそんなこと言ってないぞ。おれが言いたいのは、免許を取るのが遅れるのがいやだ、って言いたいの」
木本はいよいよ意味が分からなくなった。
「遅れるも何も、世界が滅亡したらおしまいじゃねえか」
そういう割には、おしまいって風でもない言い方をする。
「あのな、おれは別に世界が滅亡するなんて全然…」そこまで言ったとき、教官の声が聞こえた。検定試験の番が回ってきたのである。伊藤は、言葉つむぎの作業を中断して肩をすくめ、「まあいいわ」とつぶやくと片手をあげて教習車の方へ歩いていった。その様子を見て木本も肩をすくめた。「ま、いいか」彼もつぶやいた。
両軍臨戦態勢の中で、ぎりぎりの交渉が行われていた。
他の国も緊張感を増しており、ロシア軍は中国国境と旧ソ連邦諸国各国の国境線沿いに17個師団を新たに常駐させた。伊藤は、そのニュースを聴いて、まだそんなに兵器があったのか、とあきれた。
一方、人民解放軍はロシアに対しては、陸上戦力と航空戦力で、アメリカ軍に対しては核ミサイルで対抗することに決めたようで、台湾問題は海軍で何とかカタをつける気でいるようである。それに対して台湾政府は、経済力にものを言わせ、大陸沿岸の住民と極秘にコンタクトを取り、妨害工作を行い、元々北京軍管区司令部と仲の悪い広州軍を半ば独立させてしまった。また、東南アジア諸国との連携を深め、南シナ海領有権問題を楯に味方に付ける工作をほぼ終えていた。中共政府とも、裏では適当に取引している可能性もあり、両者の仲の悪さは、今までとさして変わりはない様子である。
ヨーロッパ・アフリカ諸国は、未だ中立的な立場をとっていたが、最近の米国との貿易摩擦問題が火種として残っているのか、どちらかと言えば、やや中国より的に外交折衝を行っているが、結果はかんばしくない。
オセアニア諸国は、表向き何もしていないようである。基本的には、直接攻撃をされることはないからだが、もちろん核戦争にでもなれば、間接的な影響は受けること必至で、反核を表に出している国々としても、おそらくは水面下での折衝は行っているものと見られた。これは、北欧あたりの中立国が得意な方法だが、今回の問題は北欧には関係が薄すぎて、糸口がうまく見つからなかったようである。
一番お粗末なのは日本だった。条約の関係でアメリカとの関係はぶちこわせない。しかし、貿易相手国として、またアジアの同胞としては中国も敵には回せない。なにしろ国内には、多くの華僑が住んでいるのである。中国を敵に回す政策など取ったら最後、本格的中華料理が食べれなくなるかも知れない。というのは冗談としても、本音としては(たぶんに中華料理も本音だが)、戦争による大量の難民がやってくることと、核兵器使用の場合は、日本も標的になるであろうということだった。
いままで、核兵器反対などと口では言いつつも、冷戦崩壊で、実戦使用なんてことはもうないと思っていたし、大体狙われているなんて実感はほとんどの人が持っていなかった。でなきゃ、冷戦崩壊で米ソ以外の国々が軍備増強をし始めたのに、「世界的軍縮の流れ」などとわけのわからない事を言う知識人があれほど出るわけがない。結局、日本は平和であると、錯覚していたのである。日本は平和なのではない、国内の治安が単によかっただけなのである。
この事態になると、それら多くの自称平和主義者、自称民主主義運動家、その他大勢の自称知識人たちは姿をくらましてしまった。おそらく、オーストラリアあたりに避難していることであろう。
知識人とまでは行かなくても、先走り気味の中流層の市民たちにも外国へ脱出するものが増え始めた。だが、航空管制は厳しくなる一方で、空港は大混雑だった。主義や思想に関係なく、組織の上層部の人々は、先を争って空港に押し掛けた。一方で、これまた主義主張に関係なく、下の方の人は、普段の暮らしをつづけていた。形式的な社会の上下関係は、崩壊しつつあった。
伊藤が、何とか、一発合格を果たし、木本が二回目の挑戦で「まあ、路上で練習すればよかろう」などと皮肉を言われて合格して貰ったのは、米中の最後の交渉が行われる前日の午前のことだった。ちなみに教官は最後に、木本へ次の一言をつけ加えた。
「公安委員会まで無事に行けるかの方が問題だな」
公安に行けなかったら、新しい免許証の発行がしてもらえず、二輪に関しては、無免許のままになってしまう。
「そんな、これが彼女との関係を修復する最後のチャンスかも知れないって言うのに!」
米中関係も木本の恋愛問題もぎりぎりという点では共通している様だ。
免許証交付という意味では、原付しか持っていない伊藤も木本と同様で、筆記試験も受けられないのでは、どうしようもない。
「公安委員会も混乱していて、普通二輪が限定解除にミスプリントされないかな」
木本は訳の分からないことをつぶやいている。彼女に言われて免許を取ったとはいえ、一応ライダーとしての目標があるのかも知れない。
連日の大騒ぎは、始まってから2週間が経ち、やや疲れが見え始めて、小康状態になりつつあった。琉大の構内には雑魚寝をする学生が結構いた。那覇の国際通りも似たような状態だと言う。その他では、あまり普段と変わらない状態が続いていた。
ただ、食料品が若干不足気味になったことと、基地の周りに誰もいなくなったことが、変化といえば変化だった。
「いよいよ、明日か」
木本はため息を付く。琉大の研究室のひとつである。他のゼミの学生はキャンパスのどこかで寝ているか、自宅にでもいるのか、誰も来ていなかった。
「なにが?」
唯一来ている伊藤は木本のつぶやきにわざとのんびりと聞き返した。
「なにがって、交渉決裂がだよ。これでもニュース見るようになったんだぜ。明日が交渉最終日だって事くらいはおれにもわかるぞ」
「ほう、ニュースを見るようになったか。立派立派。まあ、でもしょうがないよな。バラエティ番組なんて、なくなっちまったし」
「そうなんだよなー」
木本はため息を付く。
「彼女にもふられたわけだしなー」
「そうなん…。あのな、まだふられたと決まったわけじゃないぞ。喧嘩してるだけだ」
やや力んでいった。力んでは言ったが、自信がなくなったのか、またため息を付いて、地面を見おろした。
「ああ神様、せめて、せめて彼女に謝る機会を私にお与え下さい。これからは真面目にニュースもみます。国際情勢にも注意を払いますから、せめて、彼女と会うまでの間だけでも、核戦争にならないようにして下さい。お願いします」なんか、矛盾したことを言っている。
「無理にでも会ってみれば。明日にも世界滅亡って事になれば、もうこれでおしまいなのね、なんて感じでムードも盛り上がって、仲直りのいいチャンスかもしれんぞ」
伊藤は皮肉を言った。
「お願いします。これからはキリスト教にくら替えします。廃仏毀釈をします。だから、どうか私の願いを聞き届けてくれ給え」
皮肉は通じなかったようである。伊藤は溜息を吐いて、さらなる皮肉を言った。
「簡単に宗旨替えをすると、仏様が怒って、戦争になるかもしれんぜ」
「えっ、そんな。仏様ごめんなさい。今のは冗談です。私が仏様を裏切るわけがないでしょう。ははは、日本人ですから、そんな薄情なことはしません。ですから、私の願いを聞き届けて下さいまし」
木元は、組んでいた拳を広げ、手のひらを会わせて拝んだ。
今度はいささか皮肉が通じたようで、伊藤は少し満足した。
「ま、心配せんでも大丈夫だよ。人間は今までうまくやってきたんだから。むしろ、うまく行った後の方が恐ろしいかもしれんがね」
伊藤のつぶやきは、一人盛り上がっている木本には聞こえなかった。木本は、別の宗教の神様にも祈っていた。祈りのしかたは間違っていたが、本人は気づいていないようだった。もちろん、伊藤にとってはそんなことはどうでもよかった。なぜなら、彼は何の心配もしていなかったからだ。
頭上で金属音をひらめかせながら、アメリカ空軍の複座戦闘機が並列のまま飛び立っていった。路肩に中古のカワサキ社製399ccのバイクを止めて、木本は頭上を仰いだ。幾度となく仰いでいるのでいい加減首が痛くなった。戦闘機の群は、一定の高さまで上がると、右に旋回しつつ、空のかなたに飛び去ってゆく。
基地のフェンスの周囲には、旗やら大きな幕を持った人々が、こぶしを突き上げて何やら叫び声をあげてたむろしている。
嘉手納基地の滑走路の先端先を横切る国道58号線のフェンス沿いの歩道は、そういった群衆でうまっていた。嘉手納基地の滑走路が見渡せる唯一の丘にも、かなりの数の人々が集まり騒いでいたので、木本は近寄れなかった。彼にとっては反基地闘争なんてどうでもよかった。単に、米軍機を見に来たのである。免許を取得し、バイクを(中古ながら)購入しての練習を兼ねたツーリングである。タンデムシートには彼女は乗っておらず、自動車免許を取った伊藤も何やら忙しいとかで、付き合ってくれなかったので、一人で来たのである。
「伊藤め、あいつ女っ気ないようで本当はデートなんじゃねえのか。どうも断り方が怪しい」
木本はつぶやいた。つい最近、彼女にふられたことが確定した木本としては、他人の行動が皆、女と結びついているように見える。本当の所はわからない。
「ちぇ、これなら核戦争でも起こってくれた方がなんぼかましだったぜ」
不隠当な事をつぶやく。ちょうど戦闘機が頭上を通過したので、騒音というよりその衝撃波で、彼のつぶやきは反基地闘争をしている連中には聞こえなかった。もっとも聞こえたところで、彼にはどうでもよかった。戦争回避が決まったとたんにどこからともなくぞろぞろと現れて騒いでいる連中を彼は何とも思わなかった。危機が迫っているときにはここにはわずかの人(根性のある人というべきか)しかいなかったのに、今はこの騒ぎである。なんとなく、伊藤が言いたかったことが理解できた。安全とわかると活動するのである。
戦争は回避された。危機の時、表舞台にはちっとも顔を見せなかったオセアニア諸国が、両国の仲介を取って、舞台裏で交渉を行っていたらしい、ということだった。オーストラリア、ニュージーランドなどの外相たちは、ノーベル平和賞の候補になるかも知れない。とは、伊藤の弁である。
戦争が回避されたことで、ちょっとした問題が各地で起こっていた。
たとえば、この反基地騒ぎもそのひとつだ。戦争の危機があったときは、あきらめていたのか、街はお祭り騒ぎの他は、普段と大して変わらず、飲食店も開いていたし、スーパーも普通に運営していた。一部の品物が不足気味だったくらいである。それが今じゃ、アメリカ製品を置いているというだけで、不買運動を店の前でやられたり、スーパーの主人がデモ行進に参加したりして、生活レベルの経済活動が混乱している。
他にもある。
あれ以降、おもちゃ屋というおもちゃ屋は群衆に襲われた。兵器のプラモデルが置いてあるから、戦争ゲームの出来るゲーム機があるからというのが理由である。アメリカ資本でスーパー形式で経営している著名な大手のおもちゃ屋などは、めちゃくちゃに壊された挙げ句、商品は(戦争ゲームソフトも含めて)みな持って行かれた。
ミリタリーショップはさらに襲われ、銃砲店では、銃器が奪われて事件になった。兵器関連の部門を持つ企業の支店が襲われて、職員がけがをしたり、米軍・自衛隊に関係なく基地は襲撃の対象になった。戦争マンガが置いてあるというだけで、火を付けられた書店もあった。危機が高かったときより治安が悪化していた。口では平和を主張する一部の左翼過激派が裏で民衆の暴力をあおり立てているという話だった。極右も似たようなことをしていたが、こちらはあまり相手にされてないようで、空回り気味だった。
「心理的空虚を埋めるための一種の防衛本能さ、衝動的な行動だよ。一週間もすればおさまるよ」
伊藤はそう言って、相手にもしなかった。彼は当初から、このことも予測していたに違いない、と木本は伊藤の言いぐさから思った。
衝動的な行動は、人間社会のあちらこちらで見られた。逃げようとした上司などは、部下からつるし上げを食った。各政党の幹部が多数辞職した。ついでに言うと、内閣も総辞職した。危機対処能力が欠如しているというのが、野党の言い分であり、国民の意思も同じであった。ただ、野党の党首たちも、多くが議員辞職に追い込まれた。もちろん、要領のいい奴は生き残った。某極左政党は、戦争に反対する唯一の党であるとここぞとばかりにアピールしたが、あまり相手にされなかった。国民もそこまでは甘くないということだろうか。
危機対処に関する本が爆発的な売れ行きを見せ、出版社は、バブル的なこの流行を逃すまいと、躍起になった。中華街は前にもまして盛況となった。なぜか、クーラーの売れ行きがのび、パソコンの売れ行きものびた。原因は分からなかった。
シェルター販売店や、民家の地下拡張工事を請け負う住宅企業に、注文が相次いだのは、理解できる現象だった。大阪のある小さな土建会社は、地下一階の拡張方法に独特の工法を持っていたことで、一躍有名になった。株式上場も近いという噂である。
景気は、危機前よりもよくなったが、これこそが最大の皮肉かもしれない。
ここ一週間で様々なことがいっぺんに起こった。伊藤の意見を採用すれば、後1、2週間は続くかも知れない。もちろん、伊藤にとってはそんなことはどうでも良く、木本にとってはなおさらのことだった。今度のことで言えることは、彼女と喧嘩したら、意地を張らずにさっさと謝ること。免許が無事に取れてよかったこと、というくらいのものだろう。
木本は、ふっと軽く息をもらすとバイクにまたがり、キーをひねって、スターターを押した。中古のせいなのか、一発ではかからなかったが、何とかエンジンをかけた。まだ慣れない手つき足つきで、ギアをローに入れ、クラッチをつなげながら、後ろから車が来ないのを見計らってからおそるおそる発進した。スピードは少しずつ上がり、6車線の広い、そして走りやすい国道をとばしながら、彼は大声を出して自分をふった前の彼女の名前を叫んだ。そしてつづけてつぶやいた。
「みてろ、新しい女なんてすぐにでも見つけてやるからな。俺くらいになると、女なんていくらでも寄ってくるんだからなっ」
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